2005 年 07 月 18 日 : Image
経営者ならば「企業とは何か」について考えることも多いのではないだろうか。それへの想いや思考を廻らせることによって、なんとなく漠然としたや企業や経営がある種のイメージとして形を帯びてくるだろう。今日は「企業の目的」というものから自論や想像を展開してみよう。
単純な発想からすれば、企業は利潤を追求するために存在すると考えられるかもしれない。多くの人がそう考えるように思う。しかし企業というものが法人という、一種の生き物のような「人」という存在であることを意識した瞬間に、一番大切なのは「利潤を得ること」ではなく、「企業の存在そのもの」あるいは「永遠に渡る企業の存続」が最も大切であることが明らかになってくる。
シンプルな考え方をするのならば、例えば、100億円と引き換えに敢えて自分の命を好き好んで差し出すような人は滅多にいないだろう。"命"というものはそれだけ貴い存在であり、企業の生命もまた然りである。また、生命にも身体的物質的なものと、心や企業理念など精神的なものがある。
もちろん「利潤を得ること」は大切ではあるが、それは企業の目的からすれば筆頭に位置づけられるものではなく、P.F.ドラッカー氏もいうように「企業が存続するための条件」のようなものである。利潤は未来世界におけるその企業発展の基礎となるからだ。
それでは「企業の存続」とはどういうことを意味するのだろうか?これは単純なように見えて、とても貴重な問いかけである。
全く何もない"無"から企業を立ち上げれば、創業期ほど痛感するある事実がある。それは社会から必要とされるものしか、人々はその企業の商品やサービスを選択しないということである。この社会から必要とされるものを新たに創造し、社会に受け入れてもらうことことは、簡単なように思えて非常に難しい創業の難関である。
企業は商品やサービスを社会に提供する存在である。だから過去から現代まで永年に渡り生き続けるものの中にある種のヒントが隠されているのではないか。
音楽でいえば、何故、モーツアルト、バッハ、ベートーベン、ショパン、etc の名曲は、現代の世にあっても多くの人々から親しまれているのだろろうか。その時代、彼ら以外に数え切れないほどたくさんの音楽家がいて楽曲や歌があったのに。それは、流行の中に普遍性を持っていて、形象を超えた本質の中に時代や時間という一種の壁を乗り越えれるだけのクオリティの高さを持っていたからではないだろうか。
中国の古典でいえば、「老子」「荘子」「孫子」「史記」など幾つかの名著は、今だ世界中のひろく多くの人々に読みつがれてきている。様々な事象に応用が利く、永遠の真理というものがこれからの書物に見出せるからだろう。
そんな長い歳月を経ても存続し続けている名作の中に、企業が永遠の生命を保つヒントが隠されている。
そういう名作に共通しているのは、何処にも欠陥を見出せず、パーフェクトなデザインでありインプリメントであること、そしてその価値を単純には金額に換算できないことである。
企業の価値は、そのアウトプットである商品やサービスで判断される。だからこそ、その商品やサービスに関して徹頭徹尾に渡って完全性を期す、というのはその永遠の存続のためには絶対に外せない条件だと思う。ソフトウエアの場合、ユーザーがいるので出来る限りの完璧さを目指す努力をすべきだろう。今もオフィスでは製品の安全性、完全性を期して大量のメールが飛び交っている。
それから、株価が上昇する局面においてよく時価総額経営など、株価重視の経営が声高に叫ばれたりする。だが、何百年、何千年にも渡って生き続ける作品には単純に金額的な値打ちで量れないほどの何かがある。そんな商品やサービスを提供できるかが、「永遠の企業の存続」に向けた一つの大きな試練である。