2007 年 12 月 27 日 : 創造のプロセス
なんとなく最近、角松敏生というアーティストの音楽をよく聴く。
目にした『SEA IS A LADY』という CD のライナーノーツの冒頭はこんな言葉で始まっていた。
欲望を抑制することが道徳の一部であるとするなら、芸術と呼ばれるものの多くは、およそ道徳的ではないと思う。特に音楽はどんなジャンルのものにしても、人間の『〜したい』と言う感覚によってひきおこされる心の動きと密接に関係しているからである。…
ソフトウェアも人間の『〜したい』と言う感覚に引き起こされる度合いが強ければ強いほど、それと同じ想いの人の心に響くような気がする。
自己実現という意味では、最も高次元なレベルでありながらナチュラルな仕事に思える。
では、ソフトウェアに関して人間の『〜したい』と言う感覚って何?ということなんだけれども。
この場合、人間はプログラマと置き換えても良いと思うのだけれど、プログラマって文字通りプログラムを記述する人である。
どんなアプリケーションでも、プログラミング言語を使ってプログラムという形でプログラマによって表現される。そのプログラムをコンピュータが解釈して動作するという具合である。
こんな風に置き換えて考えることもできるだろう。
ある人が日本語でブログを書く。そして別の人がそのブログを読んで何かを感じる。場合によっては行動を起こす。
そこで思うのだが、もしコンピューターが生命や心みたいな人間のような生物だったらどうだろうか?
コンピューターがそのプログラムを見てどう感じるかという話になる。
コンピューターの向こう側にはそのアプリケーション(プログラム)を使う人が確実にいるので、ある意味ではこれは真実ではないかと反射的に思える。
コンピューターにも心というものがあって、プログラムによってときめきを覚えるくらいのものであれば、きっとそのプログラムを使う人にも響いてゆくに違いない。
今は非現実的かもしれない。これ以上ありえないほどソフィスティケイトされ美しいプログラムを記述できる環境があれば、そんな世界もいつか実現できるかもしれない。
現実世界がその逆であるだけに、道のりは険しいがアーティスティックなソフトウェアを創造する方法としてそれは王道のような気がする。