2005 年 04 月 20 日 : Core concept -5-
芸術や文学の世界では、アーティストや作家がその生涯で創り出した中で最も優れた作品を「最高傑作」と呼んだりしている。ソフィア・クレイドルではスタッフがアーティストのような感覚で働くスタイルを理想型としている。だから私たちが自信を持って誇れるような「最高傑作」を創作できることを最大の目標にしている。
ソフトウェアビジネスはある意味でとても厳しい世界といえるかもしれない。同じ種類のソフトウェアは秀逸のものが世界でただ一つあればそれだけで充分だからだ。例えば、パソコンのオペレーティングシステムならばWindows、画像を編集したければPhotoshop、動きのあるホームページを創りたければFlashといった風に用途毎に使うソフトはほぼ決まっている。その昔、競争と呼べるものは確かにあったが、今では決着が付いてしまってソフトウェアの種類毎に世界のマーケットで寡占が進んでいる。ソフトウェアの分野ではそんな傾向が他のいかなる業界よりも顕著だ。できるだけ早めに超一流の作品を先ず最初にマーケットに投入する行動こそが他の何よりも勝る最優先事項だ。
ライセンシングビジネスの厳しさは一握りの勝ち組として常勝を続けるか、或いはその他大勢の負け組として淘汰されるかでそのギャップが余りにも甚だしい点にあろう。勝ち組として生存できれば、全てのマーケットをほぼ手中に収め独占することになる。しかし、負け組となればマーケットからの全面撤退を余儀なくされる。謂わば"All or Nothing"若しくは”0か+∞(無限大)”の世界。その結末には天国と地獄という両極端な様相が待ち構えている。この種のビジネスはそんな性質があるという事実をよく理解してから創めなければならない。そういった大前提に基づいて事業を運営しなければ夢や希望といったものは日を追うごとに遠退いてゆくであろう。
この厳しい現実を踏まえた上で、敢えて世界の最高峰を目指して積極果敢に垂直登攀しようとする、潜在的に有能な人がこの日本に少ないのが残念でならない。しかし言い方を変えればこれは競争が極端に少ないことを意味し、挑戦する者にとっては千載一遇のまたとないチャンスと置き換えて解釈もできよう。実際のところ英明の誉れ高き英才と雖も大多数は大組織のなかの平凡な一スタッフのままその生涯を終えるに過ぎないのだから。
究極のポイントは「私たちが世界マーケットに向けて超一流の最高傑作と誇れる作品を本当に創造し提供できるのか?」という一点に尽きるように思う。最初からの完璧は望むべくもない。けれどもその作品の最終形の姿にどこか不自然なところや欠ける点が少しでもあれば間違いなく自然淘汰される。一寸の隙も許さないくらいの完全さや完璧さが求められる。超一流と称されるもので完全さや完璧さを欠いた自動車、飛行機があるだろうか?
デザインとプログラミングの座標軸で構成される空間を固唾を呑む思いで眺め、そして確かな才能を有する異能的な人材を妥協せずに先ず集める。そして超一流の芸術作品を創作するかのように、感性を研ぎ澄ませ、真剣かつ真摯に仕事に没頭する。そこに私たちの思いや願いを100%実現させるためのヒントが隠されているような気がする。
人材面においては、デザインとプログラミングという尺度で95点の人を100人集めるよりも一人でも良いから100点の異能を発掘することが何よりも優先される。確かに95点の人は一般的な仕事をする上で何ら問題ないかもしれない。しかし全世界の何千万、何億もの人が心から喜んでその作品を要望するかというと、たった5点の違いかもしれないが100点の異能には遥かに及ばない。この業界はこれが当たり前の世界なのだ。たとえ95点の人を100人集めたとしてもそれは成し得ないのだ。些細なニュアンスに過ぎないほど紙一重なのだがその差は余りにも掛け離れている。
自ずと世界中の誰もが心底喜んで使ってしまう作品を創ろうとするならば、この例えとしては音楽や絵画と同じように完全かつ完璧でなければならない。最初からそうである必要はないが、何れそうならないと確実に淘汰されてしまう。超一流の音楽には雑音のようなものはないし、自動車にしても世界にその名を轟かせるような高級車ともなれば乗り心地などは快適そのものだろう。ソフトウェアに関しても同様で、どこにも欠陥がなく使い心地が良くなければとても世界の人びとに使ってもらえない。世界へ旅立つということはそれくらいシビアな現実に直面することを意味する。しかしそれが仕事への遣り甲斐にも通じ、最終的に仕事を成し得た時の自己実現の面における達成感は生涯の掛け替えのない人生の証左にもなろう。
「百里を行く者は九十を半ばとす」(「戦国策」)という意味深長な戒めの箴言がある。たとえ残り1%になっても油断することなくしっかりと止めの仕事に励めと謂わんとしているのだろう。人間的感性の側面から謂うのならば、100インチの大型ディスプレイに映し出される映像もそのディスプレイの中央にある1インチ平方の部分の映像が欠ければ、映画の楽しみも半減してしまうということだろうか。それはデジタルな世界ではほんのちょっとした瑣末な出来事に過ぎない。けれども、アナログ的な人間の感性にはそれが何十倍、何百倍もの大きさになって跳ね返って響く。超一流の作品創りを目指すに当たって私たちが最も肝に銘じて実践している習慣は「百里を行く者は九十を半ばとす」ということだ。最後の詰めの仕事を完璧にこなして、最後の最後でその作品の機能や品質を極限のレベルにまで飛躍させる努力を続けている。人間という生き物にとってこの習慣は簡単に見えて意外に難しい。
(つづく)