2005 年 04 月 07 日 : Capability
ベンチャーに携わって6年余りの時が経過した。その間、幾多の壁を突破し、いろんな経験をし教訓と呼べそうなものを得てきた。「突破」、英語では「ブレークスルー(Breakthrough)」という、そのベンチャーに相応しいキーワードには個人的に感慨深いものを覚える。そのテーマで何百ページにも及ぶ書籍が出版されていたりもする。
小さな壁は比較的乗り越えることも容易だが、ベンチャーをやっていると、時には巨大な壁が突然目前に出現したりする。問題はとんでもなく大きな壁をどうやって突破するかにある。(「老子」では問題が大きくなる前に些細な段階で対処すれば何ら難しいことは起こらないと指南してくれてはいるが…。実際のところ、そうなんだけれども。)
サラリーマン時代には想像すらできない大事件に、ある日初めて遭遇することはベンチャーの世界ではよくある話だ。そんな壁を幾度か乗り越えるうちに自分を含めスタッフ全員がたくましく鍛えられてぐんぐんと成長してゆくのだから、天からの貴重な贈り物のようなものでありがたいのは事実なんだけど…。辛く厳しい現実がたまに訪れる。
ベンチャーを創める以前、実態があるかどうかは別問題として一般の世間ではそれなりに評価されるレールに沿った人生を過ごしていた。その頃は世の中社会一般に対して甘い考え方を抱くことも多かったと回想する。いまでは天と地ほどに違う両極端な世界を経験していることになるのだろうか。
一流と称される大学に入学し企業や研究機関に就職し、一見安定であるかのような生活を過ごすうちに無為に年月を積み重ねる人が多いような気がする。秘められた才能が永久にお蔵入りするような話かもしれない。もしかしてその人が偉大な発見や発明をしたかもしれないとすれば、それはとても勿体無いことだろう。
そんな大学なり、企業なり、組織に入るためには人並み以上の努力が必要だったはずだ。例えば、難関大学に入学するためにはそれに相応しいだけの難しい問題を解く為の訓練をしてきたからこそ入試に合格できたのだ。スポーツの世界で謂うならば、自分のキャパシティを超えるくらいのトレーニングを積み重ねた結果として、一流と称されるような能力やスキルが増してゆくものだ。そういったポジションを獲得するまではもの凄く努力するんだけども一旦それが手に入るとその努力を辞めてしまう人が余りにも多い。新たな壮大な目標にチャレンジする優秀な人が年齢と共に減ってゆくのがとても残念に思える。
努力するペースを緩めれば、必然的にそれだけ自分の成長のペースが緩まったり、最悪の場合、退化してしまうことすら実際には多いのではないだろうか。所詮、人間とは弱い生き物なのか。恵まれた環境に入れば、それが災いしてそうなってしまう人が多いように感じる。私がサラリーマンを辞めた理由の一つにそんな退廃的な生活のペースから脱却したいという希望もあった。
どんなものであれ、隠された潜在能力(Capability)というのは、難局を乗り切った時に初めて発見されるのが常だ。ベンチャーをやっていると必然的にそんな境遇に追い込まれる(恵まれる)のだから、そこからどうやって這い上がってゆくのかというのが最大の至上命題だ。そういった命題を証明する過程において、自分のうちに潜在的に秘められた才能が発見され、育ってゆくように実際にベンチャーをやっていてそんな感触を得ている。
危機感の少ない安定した場にいると、そんな風なニッチもサッチもゆかない場に出くわすことも少ないわけで、逆説的にはそれだけ自分が成長する機会を逸しているといえる。自分から意識して、自らの成長の機会を創って生きることもできるだろうけれど、人間というのはついつい楽をしたくなく性質にあってなかなか難しい。実際のところ、画期的なもの、革新的なものが何不自由の無い恵まれた環境から生まれるのは稀なケースといえるだろう。
米国マイクロソフト社にしてもWindowsが大ヒットした結果、一般の人には想像できなくらい巨額の収益が会社にもたされたのだから、人材面にしても設備面にしてもWindows以前と比較すれば間違いなく桁違いに良くなっているはずだ。爾来、それに見合うくらい、Windowsを遥かに凌駕し、私たちを新時代へと誘うほどに脚光を浴びる新製品はマイクロソフト社から生まれたであろうか?いろんな雑多な新製品は生まれたであろうが、依然としてマイクロソフト社の収益の8割以上はWindowsとOfficeに頼り切ったビジネスモデルになっている。
これは何もマイクソフト社に限った話ではなく、多くの大企業や組織に共通していえることだ。それが何故起こってしまうのか、というような根本的な原因や傾向とその対策を、最近、私はよく考える。ベンチャーがブレークスルーし、更に飛躍を継続するヒントがそこにありそうな気がしてならないからだ。