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Sophia Cradle IncorporatedPresident Blog : 2005年04月

2005 年 04 月 12 日 : 千里眼

最近、海外とコミュニケートする機会が頻繁にあり、和英辞典が欠かせない。たまたま和英辞典を開いて「先見力」について調べてみた。すると、そこには"vision"や"foresight"といった英単語が並んでいた。"The governor is a man of vision."(その知事は先見の明のある人だ。)という例文があったりする。 

ベンチャーを経営していると、以前と比較して"vision"というキーワードを聴く機会が殊更多い。時代の先にあるものを洞察する「先見力」はベンチャー起業家にとって貴重な資質であるという暗黙の了解があるかの如く。

いろんな要素が複雑に絡み合うので、一概にこれと断言することはできない。しかし、「先見力」はベンチャーを成功へと誘う一つの大切な要因であることは確かだろう。

和英辞典のその先にある情報を眺めていると、「先見の明がある」は英語で"have a long head"というらしい。日本語に直訳すれば「長い頭を持っている」ということか。「ものごとを長期的に判断できる」と解釈すれば良いのだろうか。こんなところに英語に対する知的好奇心が刺激される。

"have a long head"という英熟語には「頭が良い」という味も含まれているらしい。英語圏では「先見の明」こそが賢者の証かもしれない。文化的な背景の違いを想像するのはとても興味深い。

日本では、一般に「頭が良い」というのは「学業の成績が優れている」というような意味で捉えられることが多いように思う。だから有名な学校を卒業すると、その人は「頭が良い」と同義であるのがこの日本の一般的な風景の一コマに見える。

学生時代を振り返れば、残念ながら「先見力」と呼ばれる才能を伸ばす訓練を受ける機会にほとんど巡り会えなかった。過去の知識を詰め込み式に丸暗記し、予め答えが一つ決まっているものと同じ解答をするだけでよい。その正解率によって学生は評価される。そんな教育を受けてきた。「先見力」については自分なりに努めてそういった才能を磨くしかなかった。

確かに過去の事実を知ることは大切なことだ。しかし、時代の流れや勢いのようなものから、不確定要素が多く何通りにも答えがあり得る、未知の世界を推論する。そういった能力の方が社会に出てからは実用的で実際には役立つものだ。過去を振り返るだけでなく、そこから無限の可能性を秘めた未来を見渡せる才能がいま求められている。

ベンチャーを経営して尚更それを実感する。実際問題として、「頭が良い」といわれる人たちを100人集めたとしても、その中で「先見の明」のある人は1人いるかいなかくらいだろう。日本の教育のシステム上、そういった努力をしてこなかったから仕方がないといえばそれまでなのだが…。実はそんなところにニッチを見出してベンチャーを創める意義がある。

過去と未来の世界は、いま現在というポイントを経て確かに一つの道として繋がっている。その事実を時空のひろがりの中で連続的に俯瞰できる才能が先見力だ。それさえあれば不安に思うことなく明るい未来を展望することができる。さもなければサイコロを振るようにして不確定に生きるしかない。だから所謂「頭が良い」といわれる人の大半が確率論に従った人生を送らざるを得ない現実がなんとも皮肉に虚しく響く。

創業当初、人材や資金、設備などで恵まれなくとも、他の人には見えない未来への構想力と決断力こそがベンチャーにとって掛け替えの無い財産となる。経営学的にはそれが競争優位の源泉となる。弛まなく無限の成長を遂げるベンチャーの成功の秘訣は千里眼のような「先見の明」にありそうだ。

2005 年 04 月 11 日 : Language for mobile phone

日常生活のコミュニケーションの基本中の基本は「言語」にあることに異論はないだろう。あまりにも当たり前過ぎて逆に「言語」というものに対する考察が等閑になりがちだ。それでコミュニケーションにおける数々の問題がいたるところで発生している。

コンピューターを思いのまま運用するには、ソフトウェアがそのハードウェア装置と密接にコミュニケーションをとる必要がある。そのための道具が「プログラミング言語」である。一般にコンピューターを動かしているソフトウェアは「プログラミング言語」を使って人間が記述する。

コンピューター業界でも、「プログラミング言語」は自明の存在で、真剣にその本質に迫って考察しようとする人が少ないように思える。ロジカルに考えれば、「プログラミング言語」は前提条件になるのだから、この前提が間違っていればすべて崩壊しかねないだけにいくら注意を払っても十分過ぎることはない。

大学生の頃、ある言語から別の言語へプログラムを変換するための基礎となる、チョムスキーの言語理論を勉強したことがある。チョムスキーによれば、プログラミング言語に限らず、人間が扱う言語は一般に普遍的な文法で表現することが可能らしい。だから、その効能はともかくとして、英語から日本語、或いは日本語から英語など、今ではあらゆる言語間の機械翻訳が可能で実用化されている。その頃、そんな未来の世界に期待感を抱いていた。

ソフトウェアを記述するための言葉であるプログラミング言語のエッセンスを知れば知るほど、それだけ素晴らしいソフトウェアを創作できると私たちはソフトウェアの研究開発に勤しんでいる。

コンピューター業界に詳しくない方はご存知ないかもしれないが、発行済株式の時価総額が今や世界 No. 1 となった米国マイクロソフト社の出発点は、BASIC というパソコンでは史上初のプログラミング言語の事業だ。意外かもしれないが、Windows などのオペレーションティングシステムや Office などのアプリケーションパッケージではない。BASIC というプログラミング言語があったからこそ、パソコン上でプログラミングしソフトウェアを創造しようと考える人たちが世界中で増えていった。そして、パソコン向けソフトウェアの市場が創出されたのだ。いろいろと批判は多いが、そういう点においてマイクロソフトは創業当初この業界に多大なる貢献を為した。

そんなこともあって、ソフトウェア業界でビジネスを成功させるためには、プログラミング言語の位置付けについては慎重に考えるべきだし、ビジネスにできるのであれば磐石な競争優位の確立すら可能に思っている。

実際のところ、ソフィア・クレイドルでは JavaBREW(C/C++ という 2 種類のプログラミング言語を扱っている。Java に関しては、Java という言語のシステム的な構造をプログラミングすることによって、普遍的に Java のアプリケーションが圧縮できるような仕組みを技術開発した。BREW( C / C++ )に関しては、C++ というプログラミング言語を、クオリティと機能性の優れたモバイルのアプリケーションが容易にスピーディに開発できるように、C++ というプログラミング言語の仕様を拡張している。何れのビジネスもソフトウェアビジネスのインフラであるプログラミング言語の周辺分野であり、謂わば空気のような存在である。別の言い方をすれば当たり外れの少ない世界といえる。

ベンチャービジネスといえば、10 件に 1 件当たればそれで良しとする風潮がベンチャー向け投資家の筋にあったりする。そのベンチャーをやっている当事者からすれば敗北することは許されない。必然的に成功する理由が必要であろう。勝つべくして勝つ、これからのベンチャーはそのように運営されなければとつくづく思う。それを現実にするための近道は、日常生活での当たり前のような話に隠されているような気がする。

2005 年 04 月 10 日 : 予兆

「地層が地殻の割れ目に沿ってずれて食い違う現象」のことを「断層」と呼んでいる。辞書にはもうひとつの意味として、「環境の相違による考え方の食い違い」とも記されている。断層というのは地震によって引き起こされる。ある日突然、地震は襲ってくる。時にそれは為す術がない大自然の脅威や怒りに思えてしまうこともある。とにかくその瞬間、人は本能的にエピステーメー状態になってしまう。

地球上のあらゆる生命には、本能で悟って地殻変動を予知し、難を逃れたりする才能が、本来備わっているらしい。大きな自然災害の後に動物たちのそういった行動を報道で知ると、生命の神秘さに愕然とする。科学的には、地震発生の前後にはその辺りの磁場が変化し、何らかの電気的なイオンらしきものが観測できるという。動物はそれを本能で感知するのであろうか。(太古の昔、人間にもそんな能力はあったに違いない。だとすれば、それを喪失してしまった原因は…?)

世の中の移ろいゆく無常な風景もそれに等しい。歴史には変曲点のようなポイントが確かに存在し、人類は過去さまざまな変革を経験した。第二次世界大戦、明治維新、関が原など、挙げれば切りがないほどそんな断層を経て私たちの今日の姿があるのだ。

断層を境界線として世界の構造が天と地ほどに激変する。人びとの生活や社会のあり方、そして個人の生きる術も、過去に当たり前のように通用していたルールやシステムは全く意味をなさなくなる。人は水中で暮らせないが魚は何の問題もなく生きていける。地上と水中では生存するためのパラダイムが異なるのだ。時代を振り返れば、それに似たようなパラダイムシフトが時折訪れ、その度に人々の生活が変化したことが分かる。

新時代にはそれに相応しい、今までとは異なる仕組みやシステムが要請される。それまで既得権益にあぐらをかいてきた人びとにとっては都合の悪い話なのだが、それ以外の人たちにとってはまさに絶好の機会でもある。これまでエリートコースと持て囃された、一流大学、一流企業などでの過ぎ去りし日の輝かしき経歴なんていうのも文字通り単にそれだけのこと。これからの時代、きっとその人自身の未来へと繋がるポテンシャルだけが信じれる拠り所となるだろう。そんな予感がする。

地震と同じで何の備えもなければ震災に飲み込まれる可能性が高いと思う。何かが起ころうとしている前触れのような予兆を敏感に感じ取って、未来に備えることが大切な習慣になるのではないだろうか。ベンチャー起業家であれば、そういった微弱な変化を捉える能力を研ぎ澄まさなければ、と思う。

最近、過去の時代を飾った巨大組織が次々と崩壊している。そして偉大と称された、去りゆく今は昔のカリスマたち。時代の流れは大組織よりも機動性のあるチームに味方しているにも感じ取れる。ヤンキースではなく、松井。マリナーズではなく、イチロー。人びとは何よりもユニークさで際立った個人やグループの直向さや活躍に、期待を寄せ注目しその推移を見守っているかのようだ。

精神的な一体感がチームのパフォーマンスをマキシマイズしてくれる。21世紀はそんな時代だと感じている。たったひとつのある才能の開花によって世界が良い方向に化学反応しそうな、そんな夢と希望を抱いている。だからこそ、巨大な組織や権威に迎合せず、正しく自分を主張するポリシーを貫きたい。しかしそれは、間違った信念や固定された観念を守るのではない。自らも学び変化しつつ、長く優しい眼差しを持ったり他者の考えの違いも受け入れることができたら。まさに新しい世界に向けて自ら脱皮できる柔らかさやしなやかさを養いたいと願っている。チームが小さければ小さいほど、それは成し遂げやすいだろう。

いま時代は曲がり角に差し掛かっている。そして一歩一歩着実に変わりつつある。それだけは確かだ。

2005 年 04 月 09 日 : On-demand software

サーフィンといえば、携帯電話でも波情報というものが有料コンテンツとしてネット配信されている。それくらい波の情報は大切で、それによってサーフィンの楽しみが倍増されるようだ。同じように、ベンチャービジネスを成功裡に運ぶには、時代の潮流とかトレンドには常に敏感であるべきであろう。時代の波に乗るというのはとても重要なことだ。そんな能力やスキル、才能は企業規模を問わず、すべての人に平等に与えられているのだから。創めの頃、弱小だったベンチャーがいつしか急成長し、それまで安泰だった大企業をも脅かす存在になる源泉はきっとそんなところにあるに違いない。

未来を予測する上で大事なのことが一つだけある。それは時代が向かっている行方を過去から未来へと流れる潮のようなものから自らの感性で掴み取って、心眼で素直にじっと眺める姿勢であろう。偉大であれば偉大であるほどに長い時間的なスパンでものごとの本質をよく見極め確かめて、事業全体を構想し、グランドデザインすることが肝要だ。ソフィア・クレイドルでは短期的な成長よりも寧ろ永遠の世界の中で進歩発展することに願いを込めて事業が運営されている。だから、この先、10年後、30年後、50年後、世の中がどうなっていくのだろうか?というような問い掛けを何よりも貴重な財産にしている。

そのために心掛けているは、時空の中にひろがる場或いは世界においてものごとの成長曲線を点対称に描くという発想法だ。次のように未来の世界を想像し、ベンチャービジネスを育てている。これから50年後の世界を知ろうとするならば、過去50年間の歴史を具に振り返って、現在を原点に位置づけて点対称な曲線を未来の時間軸に沿って延長するというようなイメージし、ものごとのエッセンスを探ろうとしている。

この先の未来、ソフトウェアビジネスは一体全体どのような道を辿りゆくのだろうか?

数年前、ASP(ApplicationServiceProvider)などのキーワードがコンピューター関連雑誌の紙面を賑わせた。今日、これと似たようなコンセプトが「オンディマンドコンピューティング(On-Demand Computing)」というような、なんとなく洗練されたキーワードで呼ばれたりしている。簡単にいってしまえば、将来、ソフトウェアというものも電力やガス、電話と同じように使った分だけ利用者がその代金を支払うことになるだろうというコンピューティングスタイルの新しい見方である。

これを視座を変えて洞察することで新たなベンチャービジネスを構想することができる。実際、私たちはその流れに沿って事業を計画し実行している。

その発想の原点は過去から現在、未来へと時代がどのように移ろい変わりゆくのかというのを歴史的な視点からものごとを見つめるというところにある。

コンピューターが発明されて半世紀以上が経過する。最初はソフトウェアというものは存在せず、ハードウェアによってプログラミングがなされていた。50年ほど前に、フォン・ノイマン(?)の発案により、今日のようにプログラムを記憶装置に保存し、それを自由自在に変更できるかたちのものとして「ソフトウェア」が初めて世に姿を現した。

暫くして1960年代にIBM System/360という一時代を築き上げることになる汎用計算機が登場した。その頃のソフトウェアといえば、コンピューターのハードウェアを買えば自動的に付いてくるオマケみたいなものに過ぎなかった。ソフトウェアだけではビジネスは成立しえなかった。20年以上の時を経て、ようやくラリー・エリソンの率いる米国オラクル社がデータベースというソフトウェアパッケージで初めて大々的にビジネスとして成功できた。

そのビジネスのポテンシャルは今日の米国マイクロソフト社に代表されるパソコン向けソフトウェアパッケージビジネスと比較すればその規模は遥かに小さかった。ソフトウェアのビジネスがパッケージ販売として本格化したのはパソコンというプラットフォームがあったお陰だ。パソコンはそんなビジネスモデルには最適な存在だった。

21世紀に入り、多種多様な情報機器がインターネットに接続され、しかもそれらの機器は使い捨ての要素が強く、しかも携帯電話のようにその用途もダイナミックに変化するものも多くなるだろう。そうなってくると、ソフトウェアも使った分だけ代金を支払うというのが当然のあるべき姿のようにも思われる。今は、「オンディマンドコンピューティング(On-Demand Computing)」の時代が幕開けする前夜に私たちはいるのかもしれない。

ソフトウェアパッケージビジネスが汎用計算機ではなく、パソコンで華々しく開花したように、新しいオンディマンドなソフトウェアビジネスはパソコンよりも寧ろ携帯電話のような次世代を担う新しいプラットフォームで展開されるだろう、と私たちは時代の流れからそれを読み取って事業を構想し計画し展開している。

このような時代の背景を意識的に捉えた上で、どのような新しいソフトウェアビジネスを展開すれば良いのかをしっかりと見極めることが肝心要なポイントだ。ソフトウェアが電力やガス、電話のようなものと同じ位置づけになるとすれば何が重要になってくるのだろうか?そんなところから、新しいベンチャーは創まる。

電力やガス、電話に共通する特徴として、どこでもいつでも安定的に使えること、いろんな用途に利用されることなどを挙げることができるだろう。例えば、電力の場合、テレビ、洗濯機、掃除機、ポット、蛍光灯など実にさまざまな用途に利用される。しかも、停電することもなければ、電力の供給が不安定になることもない。次世代のソフトウェアにはそんな要素が求められると私たちは考えて、過去に存在し得なかった新しいアーキテクチャを持つソフトウェアを創っている。

そのようなオンディマンドなサービスに最も求められるものは、品質の高さと汎用性を兼ね備えたものを利用者に継続して安定的に供給することであろう。品質と汎用性こそがすべてといっても良い。電力、ガス、電話と同じように、インフラストラクチャーが磐石なロジスティックスを提供できるところのみがこの種のビジネスを独占することになるだろう。そういう事情があるので、オンディマンドなソフトウェアビジネスでは品質と汎用性こそが最高の営業力になるというのも一つの考え方だと直感的に思っている。裏を返せば、用途に合わせて如何様にも使える、変幻自在でクオリティの高い、新世代のソフトウェアは営業や宣伝、広告をせずともオートマティックに売れるということだ。

2005 年 04 月 07 日 : Capability

ベンチャーに携わって6年余りの時が経過した。その間、幾多の壁を突破し、いろんな経験をし教訓と呼べそうなものを得てきた。「突破」、英語では「ブレークスルー(Breakthrough)」という、そのベンチャーに相応しいキーワードには個人的に感慨深いものを覚える。そのテーマで何百ページにも及ぶ書籍が出版されていたりもする。

小さな壁は比較的乗り越えることも容易だが、ベンチャーをやっていると、時には巨大な壁が突然目前に出現したりする。問題はとんでもなく大きな壁をどうやって突破するかにある。(「老子」では問題が大きくなる前に些細な段階で対処すれば何ら難しいことは起こらないと指南してくれてはいるが…。実際のところ、そうなんだけれども。)

サラリーマン時代には想像すらできない大事件に、ある日初めて遭遇することはベンチャーの世界ではよくある話だ。そんな壁を幾度か乗り越えるうちに自分を含めスタッフ全員がたくましく鍛えられてぐんぐんと成長してゆくのだから、天からの貴重な贈り物のようなものでありがたいのは事実なんだけど…。辛く厳しい現実がたまに訪れる。

ベンチャーを創める以前、実態があるかどうかは別問題として一般の世間ではそれなりに評価されるレールに沿った人生を過ごしていた。その頃は世の中社会一般に対して甘い考え方を抱くことも多かったと回想する。いまでは天と地ほどに違う両極端な世界を経験していることになるのだろうか。

一流と称される大学に入学し企業や研究機関に就職し、一見安定であるかのような生活を過ごすうちに無為に年月を積み重ねる人が多いような気がする。秘められた才能が永久にお蔵入りするような話かもしれない。もしかしてその人が偉大な発見や発明をしたかもしれないとすれば、それはとても勿体無いことだろう。

そんな大学なり、企業なり、組織に入るためには人並み以上の努力が必要だったはずだ。例えば、難関大学に入学するためにはそれに相応しいだけの難しい問題を解く為の訓練をしてきたからこそ入試に合格できたのだ。スポーツの世界で謂うならば、自分のキャパシティを超えるくらいのトレーニングを積み重ねた結果として、一流と称されるような能力やスキルが増してゆくものだ。そういったポジションを獲得するまではもの凄く努力するんだけども一旦それが手に入るとその努力を辞めてしまう人が余りにも多い。新たな壮大な目標にチャレンジする優秀な人が年齢と共に減ってゆくのがとても残念に思える。

努力するペースを緩めれば、必然的にそれだけ自分の成長のペースが緩まったり、最悪の場合、退化してしまうことすら実際には多いのではないだろうか。所詮、人間とは弱い生き物なのか。恵まれた環境に入れば、それが災いしてそうなってしまう人が多いように感じる。私がサラリーマンを辞めた理由の一つにそんな退廃的な生活のペースから脱却したいという希望もあった。

どんなものであれ、隠された潜在能力(Capability)というのは、難局を乗り切った時に初めて発見されるのが常だ。ベンチャーをやっていると必然的にそんな境遇に追い込まれる(恵まれる)のだから、そこからどうやって這い上がってゆくのかというのが最大の至上命題だ。そういった命題を証明する過程において、自分のうちに潜在的に秘められた才能が発見され、育ってゆくように実際にベンチャーをやっていてそんな感触を得ている。

危機感の少ない安定した場にいると、そんな風なニッチもサッチもゆかない場に出くわすことも少ないわけで、逆説的にはそれだけ自分が成長する機会を逸しているといえる。自分から意識して、自らの成長の機会を創って生きることもできるだろうけれど、人間というのはついつい楽をしたくなく性質にあってなかなか難しい。実際のところ、画期的なもの、革新的なものが何不自由の無い恵まれた環境から生まれるのは稀なケースといえるだろう。

米国マイクロソフト社にしてもWindowsが大ヒットした結果、一般の人には想像できなくらい巨額の収益が会社にもたされたのだから、人材面にしても設備面にしてもWindows以前と比較すれば間違いなく桁違いに良くなっているはずだ。爾来、それに見合うくらい、Windowsを遥かに凌駕し、私たちを新時代へと誘うほどに脚光を浴びる新製品はマイクロソフト社から生まれたであろうか?いろんな雑多な新製品は生まれたであろうが、依然としてマイクロソフト社の収益の8割以上はWindowsとOfficeに頼り切ったビジネスモデルになっている。

これは何もマイクソフト社に限った話ではなく、多くの大企業や組織に共通していえることだ。それが何故起こってしまうのか、というような根本的な原因や傾向とその対策を、最近、私はよく考える。ベンチャーがブレークスルーし、更に飛躍を継続するヒントがそこにありそうな気がしてならないからだ。

2005 年 04 月 06 日 : Imaginal

ソフィア・クレイドルのビジネスはミュージシャンの世界に近いといえる。直感と洞察により新たなソフトウェアをゼロからデザインし創作する。そしてそのソフトウェアはソフィア・クレイドルを起点にして世界中のワイヤレスな空間へとひろがり多種多様なモバイル機器に配信される、というビジョンを現実の世界に写像している。いろんなお客さまからのリクエストに応じるモデルではない。

そういうわけで、いまミュージックシーンがどんな風に動いているのかいつも興味津々で見入ってしまう。多くの人びとに親しまれている音楽にハズレはなく、アタリの曲はヒットすべくしてヒットしているような気がする。さらにモーツァルトのCDが現在数千円で購入できるからといって、ではそのソフトの価値や演奏家や、モーツァルト自身の価値がそれだけとは決して単純に計れないところも似ている。

退路を断ってベンチャーをするからには、奇蹟が必然になるようなメカニズムを予め組み込むことも重要である。これも音楽の世界から学べそうだ。9割以上が失敗するというのがベンチャーの宿命であるようにいわれるのはこんなところにあるよう感じる。それは、永き時間軸と広き空間軸から構成される「場」の中で展開されゆく理想郷の景色全体を色彩豊かに鮮明に思い描いた上で、そこへ至る道筋を明確化しつつ実際にその道を歩む人が少ないからではないだろうか。

音楽の場合、実にさまざま要素から構成される。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボード、ピアノ、作詞、作曲、レコーディング、プロデュース等など。爆発的にヒットしている曲ではすべての要素が偶然にも調和を保ってパーフェクトになっているように見えて、実は、必然的にそうなっているのだと思う。一発屋というのもあるようだが、長らく第一線で活躍しているミュージシャンには、偶然という言葉は存在しないように思えてくる。

まるで生き物のように神秘的なそのかたちを頭の中に空想し眺めていると、ヒットするような曲にはあらゆる要素に超一流といったものが感じとれる。そのグループでしか演奏できない音楽に、必要な各要素がベストにパフォーマンスされるような最適化プロセスが働いているような気がする。その根本にあるのはそれを演じているその人の使命と役割だろう。その人が、そのバンド、グループがまさにその曲を演奏するからこそ、多くの人びとから親しまれる素晴らしい音楽が生まれる。

私たちは、それと同じようなことをソフィア・クレイドルというベンチャーという枠組みの中で実現しようとしている。シナリオ通り、必然といえるほどに事が運ぶようにするにはどうすべきか。これが肝心なところだが、この時一番大切な考え方は、まずはミュージシャンがグループを結成する時と同じように、その音楽を構成するボーカルやギター、ベース、ドラムを担当するいろいろな人的な要素を、妥協することなく集めるところからスタートするように思う。

イメージした構想をこのメンバーでなら為しえるのかどうかを、真剣に自問自答しながらグループを結成する。最初は一人だけのグループかもしれないが、思いが強ければ時の経過と共に運命の偶然や必然といったものに作用されて、いつしか自分たちにしか為しえないものを創造するためのグループが自然発生する。

いろんなミュージシャンの曲にそれぞれのカラーがあるように、グループが結成されれば、そのグループにしか為しえない新たな価値の継続的創作が求められる。最終的には売れるかどうかで、そのグループが存続できるか否かが左右されてしまう。従って、時代の潮流に揉まれながらも、トレンドを感じてあるいはあえて逆らいながら、それぞれのメンバーの才能を良き方向に顕在化させ、さらにそれを無限に伸ばしてゆく仕組みを発見し実践することが大切になってくる。

2005 年 04 月 04 日 : Shapes of tao

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無名は天地の始めにして、有名は万物の母なり。故に常に無欲にして以って其の妙を観、常に有欲にして以って其の徼を観る。(第一章)

古今東西問わず、世界中の人びとに永く読み継がれてきた形而上学の書としての「老子」はこんな文章から始まっている。「老子」は僅か五千字余りの文字からなる書物なのだが、そこにはものごとの本質や永遠の真理が秘めれているように思える。リズミカルで万華鏡のような陰影に富んだその箴言は、読む度にその時自分が置かれた境遇に合わせて解釈ができるから霊妙で味わい深い。

老子でいう「道」とは、万物の根源のことであって、万物を万物たらしめている原理原則のようなものらしい。しかし、これが「道」のことなんだと定義できるようなものは真の「道」ではないそうで、漠然として捉え難いもののようだ。

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、沖気は以って和を為す。(第四十二章)

人生を生きているとなんとなく、そんな法則のようなものが確かにあって、それが支配しているようにも感じられる。無から有を生む出すことが最大の使命であり永遠を目指しているベンチャーだからこそ、そんな形而上学に一種の憧れを抱く。

天下の万物は、有より生じ、有は無より生ず。(第四十章)

万物の源であり、無限にひろがる「道」に則って生きることができれば、少しは永遠に近づけるのかもしれない。そのためには「老子」でキーワードとなっている「無為」を理解することがちょっとしたヒントになるのだろうか。辞書で「無為」を調べると、「自然のままで人の手をくわえないこと」とある。

「自然のままに振舞うことって何なんだ?」という答えようのない疑問が生じたりするかもしれない。「老子」によれば、人間の知識というものには、ものごとを対立する概念に分類する傾向があるという。高と低、長と短、前と後、善と悪、美と醜などである。自然はこれらをどちらが優れるというわけでもなく無差別に包み込む。そんな姿勢が大切なんだろうか。しかし対立する概念の豊富さが創造の発想でもあるようなので、それを否定しきれないと思う。

「果てしなく広がる大地にあって、今役立っているのはその人が自らの足で踏んでいる部分だけなのだが、だからといってそれ以外の大地が不要ということにならない」という、「荘子」の「無用の用」の話にもあるように、傍目からは無用と思われている存在が実は役に立っていることを知るのは難しい。それを知るためのスタンスが「無為」であり、無から有を生む出すための大きなヒントにもなるような気がする。

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし、少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。難を其の易に図り、大を其の細に為す。(第六十三章)

聖人はあらゆるものごとを最初から難しいものと捉えるから、結果的にどうしようもない難しいことは何も起こらないという。こういった聖人のスタンスはベンチャーでリスクヘッジするための考え方として活かすことが可能だ。

ソフィア・クレイドルではソフトウェアを作るための謂わばメタフィジックなソフトウェアを創っている。老子のいうところの一種の「道」の世界の創造を目指しているのかもしれない。それを実現するためのコツは心を限りなく澄み切った透明にする姿勢にありそうだ。

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