2006 年 06 月 09 日 : Standard
高校時代、書道の時間に、「不動心」という言葉を飽きることなく何枚も何枚も書いていた頃が懐かしい。
当時、この言葉に対する認識はいまと比較するべくもなく浅かった。
全くというほど分かっていなかったけど、記憶の中に残っているのが不思議ではあり、これが潜在意識というのだろうか。
会社を経営していると、不確実なものに対して、確かなる実感を抱いて意思決定するという局面が多々訪れる。
況して、ソフィア・クレイドルのように業界初という代物を世界マーケットに送り出そうものなら、そんな出来事の連続で、それを点と点に繋げてゆけば複雑に入り組んだ曲線にもなろうかというほどだ。
何事もなるべくしてなる、という天才がいるのは事実かもしれないけれど、そこには何かが潜んでいるような気がしてならない。
世界は意思決定し行動することによって変化してゆくものではないだろうか。
行動こそが変化の直接的要因であり、その元を辿れば、それは当事者である本人の意思決定の判断基準に帰着されることが容易に分かる。
意思決定のための判断基準とは、その人の人格そのもののと言えるかもしれない。
想い描くシナリオを実現できる人とできない人の差は何だろう。
これこそが重要なポイントである、と僕は考える。
真・善・美という、基本となる三軸を知って照らし合わせて、常にマキシマムな状態にあり、ブレはないかどうか。更に言えば、一点の曇りもないかどうか。
日頃から心掛けたいのは、そういった心の状態を不動のものにするということである。
2006 年 04 月 09 日 : Chemistry
「大きな仕事は小さく分割して一つ一つ片付けて全体を完成させる」という方法論を、多くの人が当たり前のように捉えるかもしれない。
この逆の思考回路から"イノベーション"や"ブレークスルー"といった革新は生まれると僕は考えている。
簡単に言えば、異なる 2 つを"組み合わせる"ことで、オリジナルとはスガタ・カタチを全く別にする、想いもしない新しい何かが誕生するという発想である。
ナトリウム(Na)と塩素(Cl)から食塩(NaCl)が化学反応によって生成されるのと同じである。
これは何も化学の世界に限った話ではなく、ビジネスでも、スポーツでも、ミュージックでも ・・・ あらゆる日常生活で実感できる現象なのだ。
そもそも、ごく限られた種類の素粒子から創まった宇宙がそんな風にして進化発展を遂げているのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
けれども、こんな問題意識をもっている人ってどれくらいいるのかと思ったりもする。
仕事を分割してゆくアプローチは既にカタチが見えている世界でもあり、それ故に誰もがそれに取り組みたがる。
何故ならば、なんとなく安心できるからである。
過去の歴史を振り返れば、「セレンディピティ」と言われたりもするが、偉大な発見や発明は例外なく予想もしなかった出来事から生まれている。
それは異質のモノ同士を組み合わせて新しい世界を探るアプローチである。結果が見えないだけに人生を賭けるとすれば多少の勇気や決断力は要求されるだろう。
でも、人生の妙味は意外性にあるんじゃないだろうか。
2006 年 03 月 24 日 : Motive
『何故そのベンチャーを創めたの?』
簡単な質問ではあるが、論理的な矛盾で破綻しないためにも押えるべきはこの質問に対する単純明快、シンプルな答えであろう。
「自由に生きたい」
「才能を伸ばしたい」
「人の役に立ちたい」
「金持ちになりたい」
「社会貢献したい」
「人を驚かせたい」
「人を楽しませたい」
「有名になりたい」
「大きなことを為したい」
………
人それぞれに起業の理由はさまざまで、一概にどれが正しいと言えるものではない。
それは、もしベンチャーに人格があるとするなら、人格を定める類の質問なのだと思う。
日によって人格が変わる人は精神的に病んでいるように、それは法人である企業にも当てはまることである。
考え方やポリシーが首尾一貫しているから、企業は安定的に成長するのだと僕は思う。
その意味において、統一感のある企業コンセプトはとても重要で、その発端は冒頭に記した質問である。
自分が確かに生きている実感を得るために僕は起業した。
残念ながら、「世のため、人のため…」というような大それた目標の域にまで全然達していない。
個人的に思うに、先ずは自分が自立し、己の人生の目的を達成出来たとして、それは考えるべき命題と見なしている。
ただ、独りで生きている訳ではないので、世界全体を俯瞰し時代と共に移り変わる世の中を眺め、一歩でも良き方向に自分が持てる才能をできる限り発揮するようには努めている。
僕の起業の動機は極めて個人的なものである。自由に思うままに自己の才能が最大限活きる場で自分を試してみるということである。
たまたまそれに共感して価値を見出す人がいれば、その人が行動を共にするスタッフになっているかもしれない … というような極自然なスタイルが理想である。
ベンチャーは、動機に始まり、そして動機によって完成されるように思う。だから、それはいつも大切にすべきであるし、真剣に考えるべき事柄でもある。
* motive : the reason that makes someone do something, especially when this reason is kept hidden
2006 年 03 月 21 日 : 以心伝心
人の心はカタチあるものとしてイメージするなら、それは時間軸上に上下に振幅する波の形をした曲線のように思う。
気分の良いときもあれば悪いときもある。悲しいときもあれば楽しいときだってある。
人の心は緩やかにダイナミックに上昇したり下降したりしながら、波のカタチをして前進するものだ。
波は、数学的に波動方程式というもので表され、その解は sin や cos といった三角関数の合成で表現されると大学で学んだ。
単一の sin や cos が描く曲線はシンプルで単純極まりないけれど、それらを組み合わせると様々な形をした波が観測できるのが不思議ではある。
何事においても、きっとものごとの基本はシンプルでクールなのだ。
大学で数学を学んでいた当時、学問としては理解できたけれど、自分の人生においてどんな風に応用できるのか全く見当も付かなかった。
でも現実のビジネスの世界では、実際にそんな方程式を解くことによって成功したり失敗したりという感じがする。
具体的にはこんな感じである。
ベンチャービジネスで最大の難関は、ブランドも知名度も実績も無く如何にして研究開発したものが人々に選ばれるかという一点に尽きるだろう。
これは人の心の様相と密接に連動する問題である、と僕は捉えている。
音楽にしても、映画にしても、文学作品にしても、人々はそれを鑑賞することで心の波形に変化が現れる。
それがその音楽、映画、文学作品の波のカタチだ。
ある時、完璧な瞬間に、そんな波が人の心の波形とシンクロし共鳴することで波形は増幅する。
人の心と対象となるものの波のカタチを表現する、その二つの波動方程式に共通する解が見出された時、それはきっと選ばれるのではないだろうか。
二つの連立方程式に共通の解があることは、心とその対象のシンクロを意味する。
言い換えれば「それってなんとなくいいね」という思う瞬間である。
シンクロナイズされた共感のポイントを出発点として、新たな発見をし感動や感激といった心の高揚感を得る。
共通の接点から出発して、互いの曲線を辿ったときに新しい世界を感じることが出来るなら。そんな創造的なモノは、きっと人々から選ばれるに違いないし、ベンチャーを創めるひとつの理由と言えるかもしれない。
2006 年 03 月 17 日 : リベルテ
僕にとっての 21 世紀とは、「自由」な日々を過ごすための時代である。それ以前は、大学や大企業という大組織に所属していた。
「自由」が僕の人生におけるキーワードなんだけれども、よく考えてみると「自由」という言葉自体、その意味が曖昧で、人それぞれに定義が異なるようにも思える。
最近、読んだ本の中に、「自由」とは「自らに由(よ)る」ということなんだと書かれていた。
その本にあるように、他者に頼ることなく、自らの力を信じて生きるという風に、「自由」という言葉を僕なりに解釈している。
大きな組織に所属していると、権威やら権力という世俗的なものについつい迎合し勝ちである。不本意ながらそれに従わざるを得ない状況に陥る事態も多い。
そんなことが何度となく繰り返されると、次第に自分自身の本当の良さを表現するパワーが消滅してしまうシステムのようにも感じられた。
世渡りという観点から言えば、権威や権力というものに素直に従うのが手っ取り早く、近道なのかもしれない。
年を重ねる毎に時の経つスピードを実感する。人生って長いようで意外に短い。
確実に言えるのは残されている時間は有限であり、希少価値があるということ。
充実した日々を過ごすためには、できるだけ多くの時間を自分の人生の目的に費やしたい。
大きな組織から距離を置き「自由」に生きる道を選択をしたのは、そんな理由からとも言える。
〜人は常に変わりなく無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始源を認識できるのだが、いつも変わりなく欲望のとりこになっているのでは、差別と対立にみちたその末端の現象が分かるだけだ。〜「老子・第一章」(金谷治著)
2006 年 03 月 15 日 : 碁盤の目
売上とか利益というのは何かを為すための手段であり、人の体では血液のようなものかもしれない。
健康であれば血液がどんな風になっていようが、ほとんどの人は全く無関心であると思う。
僕が最も大切にしているのは、人生において何を為しえるかということ。
できることならば、永続性のある何かを創造しえたら、こんな最高なことは他にあるだろうか。
金銭的な尺度では計り知れないほどの価値が存在する。
血液が有限の存在であるように、金銭的価値も長い地球の歴史から言えば一瞬の出来事に過ぎない。
人生における自分の目標を達成するために充分なだけのものがあれば、僕はそれに関しては無頓着である。
時々、会社で会議を行うけど、最近、売上がどう利益がどうのこうの…と議論することはまず無くなった。お客様から注文をしてくださった、というおめでたいこと、これはリアルタイムに連絡してるけど。
勿論、会社の存続がかかっている時は、シビアに考えることもあった。
でもそんなフェーズも過ぎ去れば、次に考えるべきは如何にして自分の人生の目的を達成しうるかである。
永くカタチを保ちえるもの。最近、考えるのはこのことばかりである。
京都という街並みは平安建都以来1200年以上の長きに渡って、碁盤の目状の見通しの良く美しい、数学的な形を保ち続けている。
壮大なグランドビジョンがあったに違いないと思っている。
それは、自分の位置と目的地点が直感的に感じ取れる街並みなのである。
人間共通の感覚、感性、知性など、形而上学的なものをカタチにしたとも思える。
そんなフィーリングを大切にして、製品の研究開発やマーケティングに励んでいるのだけど、そこに金銭的なものが立ち入る余地はないと思う。
恐らく重要なのは、京都と同じく人間の理性に基づくグランドデザインのような気がする。