2005 年 08 月 31 日 : 期待値
X1, X2 , X3,…, Xn からなる事象Xを考える。事象 Xi の値を xi とし、事象 Xi の起きる確率を pi とした時、Xの期待値 V は次の数式で定義される。
V = x 1 · p 1 + x 2 · p 2 + x 3 · p 3 + … + x n · p n
最終的にはベンチャーで働いても大企業で働いても人生の期待値 V は同じような値に収束するような気がする。マクロ的にみればそんなところであるが、ミクロの視点では天と地くらいの差が実際にはある。
その違いはどこかといえば、結果として観測される事象 Xi の確率 pi が取り得る値である。大企業では xi が大きい場合と小さい場合の確率 pi は限りなくゼロに近く、xi が中央値に近いほどその確率 pi は 1 に近づくような感じであろう。ベンチャーでは xi が大きい場合と小さい場合の確率 pi が大企業のものよりも桁違いに大きいので、xi のその大きさに自分の人生を賭けて冒険する価値を見出せるのである。
もう一つ言える確かな事実がある。大企業は組織が巨大で安定している反面、事象 Xi の確率である pi を個人レベルの力でコントロールするのは不可能に近い。しかしベンチャーの場合はそれは自分の思い次第で十分に可能である。
ベンチャーを創める前、この意味について深く考察した。多分大きな値をとるであろう事象 Xi が成立する確率 pi は、客観的には限りなくゼロに近いかもしれない。しかしベンチャーの場合、やりようによっては確率 pi を限りなく 1 に近く経営をコントロールできるかもしれない。
たとえほんの少ししか見えないのが現実であったにしても、実現に至る道筋を鮮明に思い描くことができればその確率は限りなく 1 に近づき、大企業では為し得ない自分の可能性を発見できる世界がある。ベンチャーをする意味はそんなところにあるのではないだろうか。
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2005 年 08 月 30 日 : Idea
ベンチャーを創めるまではクリエイティブな発想の大切さを実感できなかった。自分をお客様の立場に置いて冷静に考えてみれば当たり前のことなのだが…。同じようなモノやサービスであれば、お客様は名が知れたブランドの方を迷わず選択するだろう。
だから無名のベンチャーが独立独歩で生きていくためには、他と一線を画するオリジナリティが必要不可欠である。要するにクリエイティブな発想が求められるのだ。「クリエイティブ」とは単にありふれた言葉に過ぎない。残念ながらクリエイティブな人に巡り合える機会は滅多に無いのが実情ともいえよう。
日本の学校ではクリエイティブな発想をしてもほとんど評価されないから、その訓練が疎かになっているのかもしれない。既に定められた平凡な解に誰よりも早く辿り着く能力が際立って評価される制度である。高い評価を得ようとして、そんな能力の開発に専念し無駄な時間を過ごしていることはないだろうか。
ベンチャーを創めてから痛感した事実ではあるが、近年のモノあまりの世の中では大企業においてさえも、クリエイティブな発想が希求されるようになってきたと思える。
クリエイティブな発想をどうやって磨くかが最大のキーである。異なる分野のものごとや考え方を組み合わせることによって、偶発的に新しい発見や発明が生まれる場合が多い。しかし、その組み合わせの中でもほんの一握りのものだけが偉大な発見や発明に繋がる。
人の意識には意識出来るもの"顕在意識"と出来ないもの"潜在意識"の2つがあるという。呼吸や消化活動、心臓の運動などは潜在意識が休むことなく働くことによって可能となっているらしく、どんな仕組みで動いているのか本人ですら分からないほど秘めたパワーを有するようだ。
さまざまの分野の多種多様なものごとを、広く深く学んで潜在意識の中に蓄積すること。無数の組み合わせの冒険と意外性の発見をイマジネーションに委ねる才能。その才能を育むのは仕事に賭ける自分の熱情である。それこそがクリエイティブに生きるための条件であるような気がする。
2005 年 08 月 28 日 : 季節風
2005年を代表する音は"ケツメイシ"なのだろうか。いま彼らが売れに売れている。最近、「そばにいて」や「さくら」を聴いてその情景が描かれたような曲調になるほど心地よさを感じている。「ケツノポリス4」以外の曲では「よる☆かぜ」や「夏の思い出」などもお気に入り。
ネットで調べてみるとケツメイシが結成されたのは8年前。渋谷のクラブで偶然出合ったのがきっかけだった。駆け出しの頃、大物ミュージシャンのライヴのずっと前座で必死に名前を覚えてもらおうと懸命な演奏をしていた。
「ケツメイシのCDいかがですか〜!今ならサインもつけますよ〜!」
「ケツメイシ!?・・・・・・誰?」
「誰もそんなアーティストは知らないよ!!」
その当時、これがもっぱらの周囲の評判だった。
でもそれが今や押しも押されもせぬアーティスト。何故そこまで辿り着くことができたのか?それは彼らのサイトのコラムのメッセージに隠されているような気がした。
(ライヴ終了後)
「お客さんどうでした?」
−メンバーからいつも言われる第一声。
「凄く楽しんでたよ!!」
「ふ〜ん。じゃあ良かった。」
MBAなど経営に関する学問体系が存在するにせよ、ベンチャーを成功に導いてくれる本当に大切なこと。それは難しい理論の範疇を超えたこんなシンプルな感情ではないか。ベンチャー経営に携われば携わるほどそんな思いがつのる今日この頃だ。
2005 年 08 月 27 日 : Infinite
「おいしい牛乳はどうやったらできるのですか」
ある人から訊かれて牧場主は答えた。
「幸せな牛はおいしい牛乳を出しますよ」
至極シンプルなお話ではあるが、そうなんだ、と素直に共感した。大自然のなかひろびろとした牧場にて、気の合う仲間と語らいながら幸福に過ごす牛たちから美味しいミルクというものは生まれるのである、と。
この言葉にあらゆるものに通じる汎用性と普遍性が含まれているように感じた。一般に成功するのが難しいと思われているベンチャー起業にも当てはまると思う。
人々から喜ばれる製品やサービスを提供できるならそのベンチャーには確かなレゾンデートルがあるわけで、理論的に間違いなく存続できるし自ずと成長曲線を描くものである。
「人々から喜ばれる」ということが大切なのであるが、そうなるためには商品やサービスを提供する側が幸福であること。それが必要十分条件といっても良い。
その仕事をしていて幸福感が得られているかどうか。充実した人生を送るための秘訣なのだと思った。
2005 年 08 月 26 日 : 細胞分裂
早く大人になりたいと願っていた少年時代のあの頃。今日、東京から中学生の訪問客を歓待して思った。
タイムマシンに乗ってその頃に遡ってみたらどんなだろう。でも大人になった今思うのは時の流れがもっと緩やかであればということだろうか。誰もが同じ感覚を持つみたいだけど、生きていると時間の矢の速さは物理学的には同じなのに次第に加速してゆく。だからタイムマシンで遥かな未来のほうに行ってみたいものだ。
以前テレビで見たドキュメンタリー番組が頭の片隅に残っている。生物の細胞が分裂を繰り返すことで増殖するプロセスのことを細胞分裂と呼んでいるが、細胞は分裂できる回数が決まっていてある一定の回数だけ細胞分裂すればその細胞はあとは消滅するだけだという。
矛盾するようだが、生命にとって悪影響を及ぼす癌細胞だけは際限無く細胞分裂を繰り返し、そんな細胞がある一定数以上になってその生命は終末を迎えるという。生命に備わった免疫機構がうまく働けば、その悪性の癌細胞も自ら死んでしまうように遺伝子情報としてプログラミングも為されているらしい。アポトーシスである。
細胞レベルの話ではあるが、生物の不思議で偉大なメカニズムは企業経営においてさまざまな示唆を授けてくれるものだと感心してしまう。企業も細胞分裂のようにして、ヒト、モノ、カネなどの経営資源が増え、組織が分化することによって成長する。生物にとって分裂のメカニズムそのものが生物の寿命と密接に関わっているように、企業の寿命もどのようにして組織を分化させて発展させるかが重要な概念であるかに思えてくる。
ベンチャー。最初、それは創業者のある着想から創まる。次第にスタッフが集まり、事業が自然発生し、ある一定規模の組織まで成長する。思いもしないエンディングを迎えるものもあるだろう。単純化すればそんなパターンの繰り返しである。
ではどうすれば企業の寿命を永らえることができるだろうか。細胞分裂の話から学べるのは、ベンチャーをスタートした時の一つの細胞のような最小単位で運営する仕組みを、限りなくパーフェクトに持ってゆくこと。組織が大きくなったときの細胞分裂のごとく組織分裂が必要になった時に、元と同じクオリティの組織体を維持すること。それから悪影響を及ぼすものが見受けられた場合は、細胞のアポトーシスに似たメカニズムをその組織にもたせるようなことであろうか。
2005 年 08 月 25 日 : Ideal
戸を出ずして、天下を知り、
窓を窺(うかが)わずして、天道を見る。
其の出ずることいよいよ遠く、
其の知ることいよいよ少なし。
是を以て聖人は行かずして知り、
見ずして名づけ、為さずして成す。
(「老子」第47章)
一歩も外に出ずに天下のことをすべて知り、窓の外を見ずに天の道をすべて知る。遠くへ出かければ出かけるほど、逆に知ることは少なくなる。それ故に聖人は何処へも行かないでもすべてを知り、見なくともその名を言い当て、何の行動もせずに万事を成し遂げる。
老子が語るこの生き方を、ソフィア・クレイドルの理想の経営スタイルとしている。さすがに創業初年度とその翌年は企業存続のために、他に頼るあても無いので私自身が営業に出かけることもあった。経営に困らない最低限の受注をクリアすればそれ以上の営業活動は敢えてしなかった。むしろどうすれば老子が教えるようなスタイルが現実になるのだろうかと思索していた。お陰さまで今では事業運営に必要な経費は楽にカバー出来ている。
何ごともイメージしないことには始まらない。スタッフが最高傑作と誇れる作品を創造し、営業するまでもなくお客様がそれを選ぶという自然な流れ。それが最善のスタイルでありそれを実現することを目標にしている。今は営業活動することもなければ資金繰りに奔走することもない。自分の理想実現に集中特化し、与えられたすべての時間を投入している。
言葉でいうのは簡単だが、それを具体化するのは難しいものである。しかし日常生活において重要だと思うことがある。自分がモノやサービスを買うときの話である。それは人から勧められてというより自分の感性で選んで買う場合の方が多いという事実だ。ごく自然に当たり前のようにして儲かる商売のヒントはそんなところにありそうだ。
2005 年 08 月 24 日 : Threshold
"閾値(Threshold)"という言葉をご存知だろうか。"閾値"は生理学の専門用語らしい。感覚器は刺激によって静止状態から興奮状態へ変化する。学術的には、その変化を惹き起こすのに必要な刺激の最低レベルのことを"閾値"と呼んでいる。"閾値"以下の刺激は何の意味も成さないということである。
ベンチャーを経営し事業を成功させるつもりならば、この"閾値"の問題は避けて通れない。なぜ人は製品やサービスを買うのかという根源的な問いの解を発見し行動・実践すれば、ベンチャー事業は間違いなく成功する。人は製品やサービスを買う時にそれぞれに基準があり、基準を超えるものであるから買うといっても良い。衝動買いというのもあるがそれは基準が見失われた時であって、それ以外では製品やサービスを買う時に自分の基準に照らし合わせて判断している。
判断の基準は、メジャーな例として挙げてみるライブが分かりやすいかもしれない。例えば、ケツメイシのライブには行くけれどもオレンジレンジのには行かない人もいる。当然その逆もあるだろう。またどちらのライブにも行かない人もいる。(反対に"絶対値"というのもありそうだ。例えば弊社のスタッフにはそれぞれ絶対に行くライヴがある)
人によって閾値の値はさまざまである。けれども閾値を遥かに上回る製品やサービスを提供することができれば、それは爆発的なヒットという現象に繋がると理論的に考えられる。逆に言えば、多くの人々の閾値を下回る製品やサービスはどんなに努力したとしても意味が無い。ほんの僅かの差なのだけれどもその差が致命的となって全く売れない結末を迎えてしまうからだ。閾値を超えることによって初めてその努力も報われるというのが現実のビジネスシーンである。
だからビジネスを形にするためにはなんとしてもその閾値を突き抜けなければならない。
極めてやっかいな問題がある。製品やサービスの"閾値"を定量的に図る道具や手段が無いことである。閾値まであと一歩のところにいるのに、それが具体的に見えないから折角の努力が無駄になることが多いのではないだろうか。
ソフトウェアビジネスで印象的なのは、ほんの少しある機能を追加したり、ある部分を使いやすくするだけで製品が急に売れ出すという局面の移り変わりである。0℃で水が固体から液体に、100℃で水が液体から気体に変化する様にそれは似ている。ほんの1℃しか違わないのに結果は全く異なる様相を示すのだ。
それではどのように取り組めば、閾値を遥かに超えたビジネスを展開できるのだろうか。最終的に自分の目標設定を出来る限り高く設定し、それを実現すべく常に真剣な眼差しで打ち込む姿勢が大切なのではないかと自分自身を戒めている。