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2005 年 09 月 20 日 : シフク

シフクノオト。

この連休、"Mr.Children"の"シフクノオト"を何度も聴いていた。そして CD に付属する DVD を鑑賞しながら思いを巡らせていた。

その DVD には"シフクノオト"というアルバムの音が創作されてゆく過程が記録されている。とても人気のあるアルバムだからその DVD を観られた方も多いかもしれない。

何故評価が高いのだろうか。強く感じたのは細部へのこだわりだ。しかもすべてのスタッフが楽しみながらやっている。

ベストなものを創り出す為に、何度も何度も同じ箇所をいろんなパターンで試し、その中から最上のものだけを情熱を持って音にしていくプロセスをひしひし実感できた。

翻って考えてみて、ソフィア・クレイドルのサイトやソフトについても、言葉では表現できない細かなところや雰囲気にこそ、最善を追求する姿勢がその作品の運命を決定付けるのだろう。

微妙なニュアンスにも配慮して「これでパーフェクト!」という確信と自信が持てるまで、最高の作品を創造し成長させてゆく道程が、私たちにとってのシフクかもしれないと思えた。

  

2005 年 07 月 27 日 : Identity

スポーツ、音楽、絵画などのアーティステックな分野では、"超一流"と言われるものほど、概してそれぞれに他と明確に異なる何かが必ず存在するものだ。例えばモーツアルトに似た誰かのことを聞かないし、イチローと同じような人も見たことはない。"超一流"という概念は真似が及ぶ範囲外の世界であるかに思えてくる。

ビジネスの世界でもきっとそれと同じことだろう。"超一流"の仕事を成し遂げようとするならば、真っ先に心掛けるべきは自分独自のオリジナリティを発掘し育成するという視点からものごとに臨む姿勢ではないだろうか。

ベンチャービジネスを創める動機としてお金儲けから入った場合、自分を取り巻くマーケットの情勢に否応なく従う傾向が拭い去れないだろう。ビジネスという観点からそれは至極当然なことではある。しかし、マーケットに流されて単に儲かるからという理由だけで創めたビジネスで、歴史にその名を刻むまでになった偉大なサクセスストーリーは未だ聞かれない。

創業当時から感じていたことは、現在のマーケットがどんな構造になっていようが、自分の才能が最大限に発揮できるジャンルに特化して拘り、それに徹して没頭するのみというアプローチこそが、"超一流"のアウトプットを生み出すコツに違いないという確信だった。

それでは時代のトレンドを超えた領域に踏み込んでしまって、現在の人々のニーズやウォンツとシンクロしないかもしれない。だが、自分のミッションを果たし有意義な人生を全うするという目的を達成するためには、他と一線を画すオリジナリティの発揮は欠かせない。それは必ず自分自身の中に存在しているのだと信じ、発見しようと試みるのも、ある意味では有効な方法だろう。

"時"は過去から現在、そして未来へと果てしなく永遠に流れゆく。その潮流には無限大のひろがりがある。だから自分の感性が人々のそれとシンクロする"時"が何時か訪れるだろうという予感だけは確かにある。

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2005 年 04 月 20 日 : Core concept -5-

芸術や文学の世界では、アーティストや作家がその生涯で創り出した中で最も優れた作品を「最高傑作」と呼んだりしている。ソフィア・クレイドルではスタッフがアーティストのような感覚で働くスタイルを理想型としている。だから私たちが自信を持って誇れるような「最高傑作」を創作できることを最大の目標にしている。

ソフトウェアビジネスはある意味でとても厳しい世界といえるかもしれない。同じ種類のソフトウェアは秀逸のものが世界でただ一つあればそれだけで充分だからだ。例えば、パソコンのオペレーティングシステムならばWindows、画像を編集したければPhotoshop、動きのあるホームページを創りたければFlashといった風に用途毎に使うソフトはほぼ決まっている。その昔、競争と呼べるものは確かにあったが、今では決着が付いてしまってソフトウェアの種類毎に世界のマーケットで寡占が進んでいる。ソフトウェアの分野ではそんな傾向が他のいかなる業界よりも顕著だ。できるだけ早めに超一流の作品を先ず最初にマーケットに投入する行動こそが他の何よりも勝る最優先事項だ。

ライセンシングビジネスの厳しさは一握りの勝ち組として常勝を続けるか、或いはその他大勢の負け組として淘汰されるかでそのギャップが余りにも甚だしい点にあろう。勝ち組として生存できれば、全てのマーケットをほぼ手中に収め独占することになる。しかし、負け組となればマーケットからの全面撤退を余儀なくされる。謂わば"All or Nothing"若しくは”0か+∞(無限大)”の世界。その結末には天国と地獄という両極端な様相が待ち構えている。この種のビジネスはそんな性質があるという事実をよく理解してから創めなければならない。そういった大前提に基づいて事業を運営しなければ夢や希望といったものは日を追うごとに遠退いてゆくであろう。

この厳しい現実を踏まえた上で、敢えて世界の最高峰を目指して積極果敢に垂直登攀しようとする、潜在的に有能な人がこの日本に少ないのが残念でならない。しかし言い方を変えればこれは競争が極端に少ないことを意味し、挑戦する者にとっては千載一遇のまたとないチャンスと置き換えて解釈もできよう。実際のところ英明の誉れ高き英才と雖も大多数は大組織のなかの平凡な一スタッフのままその生涯を終えるに過ぎないのだから。

究極のポイントは「私たちが世界マーケットに向けて超一流の最高傑作と誇れる作品を本当に創造し提供できるのか?」という一点に尽きるように思う。最初からの完璧は望むべくもない。けれどもその作品の最終形の姿にどこか不自然なところや欠ける点が少しでもあれば間違いなく自然淘汰される。一寸の隙も許さないくらいの完全さや完璧さが求められる。超一流と称されるもので完全さや完璧さを欠いた自動車、飛行機があるだろうか?

デザインとプログラミングの座標軸で構成される空間を固唾を呑む思いで眺め、そして確かな才能を有する異能的な人材を妥協せずに先ず集める。そして超一流の芸術作品を創作するかのように、感性を研ぎ澄ませ、真剣かつ真摯に仕事に没頭する。そこに私たちの思いや願いを100%実現させるためのヒントが隠されているような気がする。

人材面においては、デザインとプログラミングという尺度で95点の人を100人集めるよりも一人でも良いから100点の異能を発掘することが何よりも優先される。確かに95点の人は一般的な仕事をする上で何ら問題ないかもしれない。しかし全世界の何千万、何億もの人が心から喜んでその作品を要望するかというと、たった5点の違いかもしれないが100点の異能には遥かに及ばない。この業界はこれが当たり前の世界なのだ。たとえ95点の人を100人集めたとしてもそれは成し得ないのだ。些細なニュアンスに過ぎないほど紙一重なのだがその差は余りにも掛け離れている。

自ずと世界中の誰もが心底喜んで使ってしまう作品を創ろうとするならば、この例えとしては音楽や絵画と同じように完全かつ完璧でなければならない。最初からそうである必要はないが、何れそうならないと確実に淘汰されてしまう。超一流の音楽には雑音のようなものはないし、自動車にしても世界にその名を轟かせるような高級車ともなれば乗り心地などは快適そのものだろう。ソフトウェアに関しても同様で、どこにも欠陥がなく使い心地が良くなければとても世界の人びとに使ってもらえない。世界へ旅立つということはそれくらいシビアな現実に直面することを意味する。しかしそれが仕事への遣り甲斐にも通じ、最終的に仕事を成し得た時の自己実現の面における達成感は生涯の掛け替えのない人生の証左にもなろう。

「百里を行く者は九十を半ばとす」(「戦国策」)という意味深長な戒めの箴言がある。たとえ残り1%になっても油断することなくしっかりと止めの仕事に励めと謂わんとしているのだろう。人間的感性の側面から謂うのならば、100インチの大型ディスプレイに映し出される映像もそのディスプレイの中央にある1インチ平方の部分の映像が欠ければ、映画の楽しみも半減してしまうということだろうか。それはデジタルな世界ではほんのちょっとした瑣末な出来事に過ぎない。けれども、アナログ的な人間の感性にはそれが何十倍、何百倍もの大きさになって跳ね返って響く。超一流の作品創りを目指すに当たって私たちが最も肝に銘じて実践している習慣は「百里を行く者は九十を半ばとす」ということだ。最後の詰めの仕事を完璧にこなして、最後の最後でその作品の機能や品質を極限のレベルにまで飛躍させる努力を続けている。人間という生き物にとってこの習慣は簡単に見えて意外に難しい。

(つづく)

  

2005 年 02 月 22 日 : スマッシュヒット

しっかりとボールを見極めて、そのボールをバットの芯で捉え、鮮やかなスマッシュヒットを放つ。バッティングの基本はこんなところにあるんだと思う。

いろんな人の仕事のアウトプットを見ていると、人それぞれに様々な多様性を発見できる。定量的に評価すれば、Aという人はBという人の100倍以上のパフォーマンスを発揮していたりする。働いている時間は100倍という訳でもなくほとんど変わらないのに、結果的にそんな大差となる。

それぞれの人の行動というのは、時間と空間と行動という3つのパラメーターの関数になっているように仮定できそうだ。何も考えず只管長時間労働したからといって、必ずしも良い結果が得られるとは限らない。長く活動していればそれだけ多くの気付きを得て、素晴らしい業績を残せる可能性は高まるかもしれない。

ボールをよく見ないで、バットを振り回していても虚しく空を切るだけに終わる場合が多い。よく見て絶好のコースに来たボールだけを確実にスイングする方がヒットとなり、ボールは美しい軌跡を描く。

このように野球ならば当たり前のことが、現実のビジネスの場ではなされていないように思える。常に着実を心掛けて、その時その状況におけるチャンスをよく見極めて行動している人だけが、他の人の何百倍ものダントツの業績を残す傾向にあるようだ。

本当に何が大切であるか、日頃から物事の本質を見抜く訓練をしていれば、その振る舞いが自然に本能的な行動へと昇華し、短時間しか仕事をしなくとも圧倒的なパフォーマンスを発揮できるような気がする。

21世紀の時代では独創的な発想というものが貴重な才能として社会から評価されるだろう。凡人が独創性を身に着けるためには、様々な分野の物事を学ぶ必要がある。しかし、時間というものは1日24時間と有限だ。限りのある時間だからこそ、その時、その場所で本当に最適なものだけを選択して、学んだり、考えたり、体験したりする、野球で言うところの選球眼を伴ったバッティングセンスのような思考と行動が大切になって来るだろう。そんな予感がする。

  

2005 年 02 月 21 日 : 小さな組織にて

1980年代、表計算と言えば「ロータス1−2−3」のことだった。2005年の今、表計算で「ロータス1−2−3」を使う人は珍しく、大半の人は「マイクロソフトExcel」を利用している。

1988年のころの興味深いデータがある。同じ表計算ソフトの開発チームの規模なのだが、「マイクロソフトExcel」は15名で、「ロータス1−2−3」は100名の組織で製品開発がなされていたという。最終的には、圧倒的に少ない人数のチームで開発された「マイクロソフトExcel」が、「ロータス1−2−3」を駆逐してしまった。(「私がマイクロソフトで学んだこと」、32ページ)

これは「大きければそれで良いのだ」ということが通用しない典型的な例といえるだろう。特にソフトウェアの開発では、できる限り少ない人数でチームを構成するのが重要だと思う。他の仕事でもそうかもしれない。

その理由はいろいろと考えられるが、人数が少なければ一人当たりの責任の範囲や度合いが大きくなり、それだけ頑張れるし、仕事の達成感を実感できるからではないかと思う。人数が少ないといろんな創意工夫もなされる。

人数的な制約があれば、創れるものにも物理的な限界がでてくる。本当に欠かせない機能だけに絞って重点的に開発することになる。よく考えてみると当たり前のことかもしれないけれど、利用者が普段使っている製品機能はほんのごく僅かだ。こんなところにもパレートの法則(80対20の法則)は有効に働いている。

「シンプル・イズ・ザ・ベスト」ということかもしれない。シンプルな製品は売れるパターンの一つだ。人数が少なければ必然的にシンプルな構成の製品を創らざるを得ない。大規模な組織になってしまうと、誰もが余分だと感じているのに新機能を付けてしまおうというような発想も起こるかもしれない。こんなことをすれば、逆に製品そのもののトータルシステムとしての価値が低下してしまう。

ボトルネックの法則によれば、ソフトウェア製品のクオリティというものは、その製品を構成する数多くの部品やパーツの性能で最も低いところで決まると一般にいわれている。少人数なら、なるべく同じレベルの人材を集めることも可能となる。そのチームの範囲内でできる仕事を見つけて、だんだんとクオリティの高い成果をあげることができる。

マイクロソフトがロータスよりも一桁下回るくらいの規模のチームで、同じような製品開発することで得られるもう一つの大きなメリットがあった。それはチームを構成するスタッフたちの成長だった。少ない人数で大きな仕事をしようとすれば、真に重要なことは何かということを自問自答したり、短時間で集中して仕事をこなす術を考案したり、無駄な仕事をしない習慣が自然に備わってくるそうだ。プロフェッショナルなアスリートたちがオーバーフローするような訓練や練習をすることで、自分の筋力を鍛えるのと同じようなことが現実の仕事においても求められる。

同じ仕事をできるだけ少ないチームでやる方法について、真剣に考えている人は意外に少ない。

  

2005 年 02 月 13 日 : ブレークスルー

フェルマーの最終定理とは、

「3以上の自然数nについて,
  (Xのn乗)+(Yのn乗)=(Zのn乗)
を満たす自然数(X,Y,Z)の組み合わせは存在しない」

という定理である。1637年頃、フランスの法律学者にしてアマチュアの数学者ピエール・ド・フェルマー氏が、ギリシア時代の数学者ディオファントス氏の「算術」という数論の本を読んでいた時に思いついた定理らしい。

それから350年以上の時を経て、この定理の証明は1995年5月にプリンストン大学のアンドリュー・ワイルズ氏によって初めて完璧に証明される。

フェルマーの最終定理は「ある楕円方程式のE系列は、どれかの保型形式のM系列である」という「谷山・志村予想(1955年9月)」という問題に帰着され、それを証明さえすれば良かった。アンドリュー・ワイルズ氏はこの「谷山・志村予想」を証明したと言うことになる。

世界的に有名な数学の定理の証明に、日本人が立派な貢献を果たしているのが感慨深いが、偉大なブレークスルーを生み出すヒントのようなものをこの証明の連鎖から学ぶことも可能である。

詳しくは知らないが、おそらく「谷山・志村予想」を発表した志村五郎氏と谷山豊氏の2人は、「フェルマーの最終定理」を証明するためにこれを発見したのではないと思う。しかし、偉大な「フェルマーの最終定理」を証明する上では必要不可欠なものであった。そのことを発見した(1984年)のはゲルハルト・フライ氏で、さらに「フェルマーの最終定理」が「谷山・志村予想」に帰着できる(1986年)ことを示したのはケン・リベット氏という人だったらしい。そして、1995年にアンドリュー・ワイルズ氏が「谷山・志村予想」を証明することでフェルマーの最終定理を証明した。

このように、ブレークスルーというものは、後から考えてみると、一見無関係に見えるもの同士の融合から生じているのかもしれない。いろんな色の絵の具の配合の仕方次第で、様々な美しい色を創り出すのとなんとなく似ている。それには配分や調整も必要と思う。

ハイテクベンチャーの場合は、その事業の根幹とも言えるテクノロジーのブレークスルーを生み出せるかか否かでその未来が決まってしまう性格を持っている。ブレークスルーというものは、単に長時間労働をしていれば生まれるものではなく、何らかのセンスとか感性といったものが何よりも大切になってくる。

その条件とは何であるかを、ハイテクベンチャーの経営者は常に自分に問わなければならないだろう。今のところ、ソフィア・クレイドルは、携帯電話向けのソフトウェア研究開発事業を展開している。まず第一に、所属するスタッフが自ら好んで、自分の研究開発テーマを見出すスタンスが重要ではないかと思っている。それから融合という意味においては、単にソフトウェアという分野だけにとどまらず、さまざまな分野の学問や芸術、遊びに興味を持っていることも大切と思う。実際に、仕事や技術の話だけでなく、映画や音楽やサイエンス・フィクションや世界の不思議な話なんかが飛び交っている。そして、いろんな文化背景をもった尊敬できるスタッフたちとの交流は、お互いに刺激的な新しい何かを見出せる可能性が高い。

  

2005 年 02 月 09 日 : 有/無

中国の古典「老子」の第11章に次のような文章がある。


  三十輻一轂を共にす。
  其の無に当たりて、車の用あり。

  埴をこねて以って器を為る。
  その無に当たりて、器の用あり。

  戸ゆうをうがちて以って室を為る。
  其の無に当たりて、室の用有り。

  故に有の以って利を為すは、
  無の以って用を為せばなり。


この文章の意味するところを簡単に要約すれば、「車輪にしても、器にしても、家にしても、それらの<有>ともいえる物体の間には<無>ともいえる空間というものがあるからこそ用をなす」ということだ。

モノ作りをしていると、特に初心者の頃は過剰に親切心やこだわりが働き、それが禍して逆に品質が悪くなったりする。

「作る人」と「使う人」という、ツールに関しては2種類の主体があるということを、よく理解することが大事ではないかと次第に分かってきた。

だから、そのモノが「作る人」から「使う人」に渡されるインターフェースというものは、最も重要なポイントと考えるべきだろう。そこにある種の断絶が見られる商品は、売れずにその生命を終える可能性が高いように思える。

どんなモノにもそれぞれに最適なインターフェースの境界線があり、その線引きには、デザインのアーティスティックなセンスと共に、いわば職人芸的なセンスというものがマーケットから要求されている。

  
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