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2005 年 01 月 18 日 : 起業家の最終学歴

たまたま手にとった本(「ベンチャー経営論」)のあるページに興味深いデータがあった。

それは起業家の最終学歴に関するもので、1995 〜 1996 年のデータだが、いまもほとんどその傾向に変わりはないと思う。

それによると、最終学歴が大学院である起業家の構成比は日本が僅か 1.2 %に対して、米国は 26.1 %と大きくかけ離れている。(博士だけのデータがあるとすれば、その差はもっと開いていることだろう。)

だから、GoogleYahoo! など米国にはその名を全世界に轟かせるようなハイテクベンチャーが多いのかもしれない。

大学院は、専門性を核にした自己の創造性や独創性を磨くための場だと思っている。ハイテクベンチャーの起業家にとって、それは最も求められる素養のうちのひとつともいえる。

日本では大学院卒の起業家が少ない。ということは、裏を返せば、大学院で学ぶような専門知識を活かしたハイテクベンチャーが国内で成功する確率は高いのではないだろうか。それを足掛りとして、日本から世界へと飛躍できるかもしれない。

何しろ、単純に計算した競争率は米国よりも20分の1以下と桁違いに低いのだから。複雑な背景がもっとあるのかもしれないが、直感的にはそんな感じがする。

日本の場合、高学歴になればなるほど、人は保守的になるのがとても残念だ。そこに大きなチャンスがあるにもかかわらず…。

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2005 年 01 月 07 日 : 馴らされた鴨

この鴨の話はご存知だろうか?

デンマークの哲学者、キルケゴールの「馴らされた鴨」の話である。一度は耳にしたことがあるかもしれない。創業以来、公私にわたってお世話になっている先輩社長からも、IBMといえば「野鴨の話」で有名ですね、といわれ驚いたりする。

実は、IBMに入社したのが、この話を知るきっかけだった。そして、星の数のように、あまたこの世に紡ぎ出されし物語の中でも、この話が私の潜在意識に強くしみこんでいるらしく、未だにその印象を忘れることができないでいる。

それはこんな内容の話だ。

『毎年晩秋の頃になると、鴨の群れは食べ物を求めて南へと旅立っていった。ある日、その土地に住む老人がその鴨の群れに餌を与え始めた。すると、その年から、冬になっても、その鴨の群れは南へと飛び立たなくなってしまった。飛ばなくとも食べ物にありつけるので、その太った鴨たちは飛ぶことすらしなくなった。そして、その老人が亡くなり、その飼いならされた鴨たちは、食べ物を求めて自分の翼で飛ぶ必要にやっと駆られたが、もはや飛ぶことはできず、全ての鴨が死んでしまったという。』

この話に感銘を受けた、米国IBM社の二代目社長トーマス・ワトソン・ジュニアは、さらに次のような言葉を残している。

「野鴨は馴らすことはできる。しかし馴らした鴨を野性に返すことはできない。もう一つ、馴らされた鴨はもはやどこへも飛んでいくことはできない。ビジネスには野鴨が必要なのである。」

この話を忘れ得ないのは、IBM時代、入社間もない頃に聴いたからだろうか。だから、サラリーマンをしていた頃も、私は、少なくとも飼い馴らされた鴨にはなりきれず、自分というものを主張する、上司たちからすれば管理しにくい存在であったかもしれない。上司にとっては、入社してそんなにも即、トーマス・ワトソン・ジュニアの言う通りの飼い馴らされない鴨にならなくても、という気持ちであったことだろう。

ベンチャーを創業した今となっては、そのような精神でもってサラリーマン時代を過ごせたことはとても幸せだったと思う。

黙っていても、毎月決められた日に、自分の銀行口座に決められた給与が振り込まれるという「飼い馴らされた鴨」のような感覚で働く習慣がついていたとしたら、ベンチャーを創業したとたん倒産、もしくは廃業に追い込まれたことであろう。

独立するということは、毎月自分の銀行口座に決まった給与が振り込まれる生活から決別するということなのだ。自分たちが創った商品を買ってくださるお客さまを創造しない限り、自分の銀行口座にお金が振り込まれることはありえない。

お客さまを創造できなければ、あとは餓え死にするしかないのである。極端な話をするならば、ベンチャー創業とは生死を賭けた戦いとも言える。

しかし、逆の視点から、この事実を眺めれば、社会的に意義のあることを成し、たくさんのお客さまを、そして仕事というものを、無制限に創造することもできる。

そうして得たお金を、社会的に意義のある、より大きな仕事に投資することによって、スタッフたちと会社はぐんぐんと成長することもできるし、その収穫を社会に還元することも可能だ。

IBMで学んだこの貴重な言葉は、ベンチャー起業の支えにもなっている。IBMで働いて良かったと実感できる瞬間でもある。「馴らされた鴨」の話は、ベンチャーが偉大な企業へ成長するための道に通じる何か普遍的な話のように思える。

同じIBM出身者でも、このトーマス・ワトソン・ジュニアの精神を信じ、ここまで本気で実践し行動している者は少ないような気がする。ある意味では、このために辛く厳しい壁にぶち当たることもある。しかし、いつか長い人生を振り返る時に、これこそが人生を豊かに有意義なものにしてくれた鍵だったと回想できる日が来ることを願いたい。

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2005 年 01 月 04 日 : Entrepreneurship

2000 年を境として「モノ余り現象」が急激な勢いで進展している。そして、過去の歴史を振り返っても現代ほど個人が期待されている時代はないだろう。その個人に秘められた潜在的な才能や能力を、遺憾なく発揮できる場所、環境を提供できるかどうかで、その会社の未来が決定づけられるのではないだろうか。

こと細かく仕事の指示をすることは余りない。懇切丁寧に指図しないので、将来展望のようなものが見えないといって去る者もたまにいる。しかし、ソフィア・クレイドルでは、若きスタッフたちが、常識では考えられないほど、仕事を任せられ、自由闊達に活躍している。彼らの創作したソフトウェアは、数え切れないほど多くのアプリケーションで、実際に利用されている。

前途有望な若いスタッフたちの可能性を、できる限り伸ばそうとするならば、彼らが自ら機会を創り、自分の才能を切り拓いてゆくのがベストだと思う。これは私が起業した一つの理由でもある。

世間一般でいうところの大企業に勤務していたことがあった。その時に苦い経験をした。別に会社が悪いというのではなくて、私という存在がたまたま大企業で働くということに向いていなかっただけなのだが…。その会社自体は立派な会社だと今でも思っている。

大企業の場合、大きくなればなるほど、業務プロセスと個々の社員のミッションというものが細かくマニュアルに記載されていて、その範囲内で仕事をすることが求められる。範囲外の仕事をすると、業績評価の対象にもならないし、動こうにも制約が厳しくやりたいことがあまりできない。例外はあると思うが、だいたいそんな傾向にある。もしソフィア・クレイドルが大企業になった場合は、その例外の部類に属したいものだ。

コンピューターテクノロジーの進歩は早く、技術的な仕事をするのに、どうしても組織の定められたミッションを遂行するだけでは無理があって、その頃、やりたい仕事が全くできない日々が長く続いていた。組織の問題ではなく、そのミッションと私のやりたいことが合わなかったということだ。組織のルールに従えば、それで万事済むように思えるが、自分の才能や能力といったものを、潜在的なものまで含めて完全燃焼するくらいに頑張ることはできなかった。

ノーベル賞にしても、その評価の対象となるのは 20 代の頃の業績によるものが大半であるようだが、ソフトウェアのような仕事も、20 代の時にこそ世界を変革するような画期的な成果が生まれるものだ。

大企業にいた頃の職務内容は、既成概念のもとに作成された事業計画をトップダウンに展開し、その一部をある社員が受け持ち、それを計画通りうまくやれば、「A」や「SA」というような最上位の業績評価を受けることになる。成績が良いのは、ボーナスや昇給、昇格に繋がり、個人的な生活の上では満足できるかもしれないが、与えられた職務範囲外や計画外のことまでやれば、社会にもっと大きく貢献するような仕事ができた可能性も否めない。

そのような仕事ができる場を求めて、いろんなところを探したが、発見できずにいた。最終的には、今のように起業という手段で、ソフィア・クレイドルのスタッフたちと共に、私たちがやりたいことを自分たちが決めたルールで、自由に楽しく充実した人生を過ごそうとしている。

そんな経緯や背景があるので、スタッフたちには自己の潜在能力を思う存分に発揮してもらうため、できるだけ細かい指示はせずに、自由にのびのびと仕事をしてもらうように配慮している。だから、自ら計画し、ものごとを組み立てて仕事をすることに不得手な人にとっては働きにくい職場かもしれない。しかし、クリエイティブな人にとってはとても居心地の良い職場のようだ。彼らの素晴らしいアウトプットを見ていればそれがよく分かる。

例えば、29 歳の G 君は、あるフリーソフトの作者として日本全国にその名を轟かせるくらい、知る人ぞ知るような存在だ。H 君、Y 君の中高校の科学部の後輩でもある。つい最近、彼は、ある大手企業の中央研究所から依頼された PDA 向けのソフトウェアを、携帯電話に自動的に移植するシステムを1ヶ月足らずで完成させている。通常、このような仕事は、手作業で数ヶ月かけてプログラムを組みなおす、超面倒なかったるい作業だ。しかし、彼は、どんなソフトウェアでも自動的に携帯電話に移植できてしまうような汎用的なシステムとして、それを大変、エレガントに創った。

22 歳の E 君は、大学では理論物理学を学んでいる。プログラミングは趣味でやっているようだが、驚くほどアルゴリズムに強い。携帯電話で搭載されている CCD カメラを通して漢字を文字認識するようなシステムは、未だ発表されていないと思う。いま、彼はそのようなものを研究開発している。入社して間もないが、そのシステムはまもなくプロトタイプが完成する見込みで、とても楽しみだ。

(ある上場企業が同じようなシステムを開発している。しかし、それは文字のバリエーションの少ないアルファベットと数字、簡単な記号までしか認識できない。E君のシステムでは携帯電話で何千ものバリエーションのある漢字まで認識できる点が画期的だ。韓国語、中国語など多種多様な言語の文字認識にも汎用的に横展開できる凄い発明へと発展するかもしれない。ある意味でその未来にワクワク、ドキドキするような気分を抱かせてくれる。)

主に開発系スタッフについて述べてきたけれど、ソフィア・クレイドルでは、そんな風に、20 歳前後のスタッフたちが、一般企業のベテラン社員と遜色のないくらい素晴らしい成果をあげている。

しかも自律的に自ら機会を見つけ、自分で目標を設定している点がとても評価できると思う。そういう次第で、ようやくこのような日記を書く余裕を持てるようになってきた。

  

2005 年 01 月 03 日 : Amazing story

稀に「奇跡」と言いたいような凄い事実や光景を見たり、聴いたりすることがある。

そんな出来事は一体どういった背景があって発生するのだろうか?

たまたま起こった偶然に過ぎないのだろうか?或いは、起こるべくして起こったのだろうか?

それが起こる理由や原因というものがあったからこそ、「現実」になったのだと信じたい。

ソフィア・クレイドルというベンチャーを経営する起業家である。将来的には自社の製品が、世界のあらゆる人に、良い意味において大きな影響を及ぼすことを、できるだけ鮮明にイメージしている。

客観的に考えれば、創業して 3 年の会社がそんな壮大なことを成し得るのは、それこそ「奇跡」かもしれない。

ベンチャー起業家として、それを確率的に稀な話で済ますわけにはいかない。必然となるようにしなければならない。

無名の時から、ソフィア・クレイドルの製品を支持してくださったお客様への責任であり、製品の研究開発に、献身的に打ち込んできたスタッフたちへの責任でもある。

どんなに偉大な発見、発明、事業にしても、最初はゼロからスタートである。「不可能」はあり得ない。私たちにも偉大なことを成し遂げる資格はある。

自分たちの可能性を信じることはとても大切なことだ。

最初から諦めている人が多いのではないだろうか。歳を重ねる毎に夢も膨らませてゆきたい。

一般に奇跡的な出来事といわれるようなことを、達成する能力とは何なのだろうか?

こんなことを真剣に考える人は本当に少ない。実践している人となればもっと少ない。

成功者の大半は、偶然という要素よりも、そんな能力の追い風を受けて成功しているのが事実だ。

人間の意識には「顕在意識」と「潜在意識」がある。

「顕在意識」とは、ごく普通に私たちが「意識」と呼んでいるもののことだ。

「潜在意識」とは、私たちが意識しえない意識のことであり、呼吸や消化、循環などの人間が生きていくのに欠くことのできないことを司っているような、存在しているにも関わらず、はっきりとその正体が分からない不思議な領域である。

偉大なことを成しえるか否かは、自分の「潜在意識」というものに秘められた力を使いこなせるかどうかにかかっている、と思っている。

偉大な功績を成し遂げた人の書物や話では、大抵この話が出てくる。例えば、モーツアルトは、作曲するときに無意識に、頭に浮かんだメロディーを超人的なスピードで次々と楽譜に落としていった。

昔から、「潜在意識」という不可思議な実体に強く惹かれていて、いろんな書物を読みながら、どうすればその力を自分のものとすることができるのか、などと思いめぐらせたりしていた。

科学的根拠に基づいた、定量的な評価結果というものは存在しない。人の行動というものは全体の90%以上が「潜在意識」というものから生まれ、「顕在意識」によるものはほんの数%だという。

人間が自分で解明することさえできない、生命の仕組みを司っているだけに「潜在意識」の力は目に見えないくせにそんなにも偉大である。

通常、学校教育の試験などで量れるのは、「顕在意識」から生み出されるほうの能力であり、それは全体の意識からすれば氷山の一角に過ぎないことになる。

勿論、学業優秀だった人も偉大な業績を残すこともあるが、学業優秀であっても、社会に出ると平凡な業績しか残せない人は、意外にも多いのではないか。

逆に、学業面ではそんなにたいしたことないのに、社会に出たとたん大きな業績を出している人が案外多い。

いろんな人を見て思うのは、恐らく、成功している人の多くは、「潜在意識」というものをうまく活かしているのだろうという仮説を私は持っている。

「潜在意識」というものは、無意識な意識なのだが、それは「顕在意識」に認識されたものが自分の頭の中にイメージされるものらしい。

いわば、最初は自分の顕在的な想像力から始まるわけだ。だから、最初に「潜在意識」に込める思いやイメージというものは極めて大切だ。

どれだけ真に良きことを前向きに、イメージできるかできないかで、自分の人生そのものが決定付けられる。

これは一つの真理であると、あえて受け止めて、会社や自分や家族のことを、前向きにイメージして思い描くようにしている。

イメージが「潜在意識」に透徹するまでには、寝ても覚めてもそれこそノイローゼになるくらい、思いをイメージし続けねばならない。

簡単なことではなく、根気のいるプロセスである。

質や量の問題もあるけれど、これを実践しているだけでも、実践しない人生と比べれば、異なってくるのではないだろうか。

  

2004 年 12 月 23 日 : パンドラの箱

ギリシャ神話によると、パンドラは神々によって創られた最初の人間の女性だそうである。

パンドラは地上に降りるときに、神々からの贈り物である「箱」を持たされた。「箱」を開けることは許されていなかった。ある日、パンドラはその扉を開けてしまった。そのとたん、この世に存在するありとあらゆる災い、病気や不幸なんかが飛び出してしまったという。

パンドラが慌ててその扉を閉じたところ、その箱には一つだけ残されたものがあった。

それは「希望」だった。

パンドラの話で、感慨深いのは、箱には「希望」が残されていたこと。

「ベンチャー起業」は、ある意味では、「パンドラの箱」を開けるようなもの。どんな大企業で勤務していようと、サラリーマン生活を送る者の多くは、「ベンチャー起業」という「パンドラの箱」を開けてみようかと思うことがある。

ただ、それを開けたとたん襲ってくる、ありとあらゆる困難にどう対処していいか、分からないし、不安だから、ためらっている人が大半ではないだろうか。

「パンドラの箱」を開ける決心をしたのは、そこに残された「希望」というものの存在に、全てを賭けたからだ。

確かに、誰にも頼ることはできず、守られているわけでもなく、自分を信じ、自分を頼っていくしかない。けれども、事業をやっていて次第に分かってくるのは、「希望」というものがだんだんと大きくなってくるということだった。それを「感性」で感じ取れるのは生きている上で大きな喜びだ。

ベンチャー起業は人、資金、知名度、技術力等などすべてゼロからスタートするわけだから、既に長年その業界に存在している企業と互角に渡り合っていくのは並大抵のことではない。

「希望」を信じて、一歩一歩着実に成果を積み重ねていけば、知らないうちに驚くほどの大きな実績となっている。

最初はまったくのゼロだった。

今では少しは「ソフィア・クレイドル」という社名を知っていたり、聞いていたりする人がいる。有難いことに製品も売れている。尊敬でき、超一流といえるスタッフに囲まれている。ハードの設備、ソフトの環境も創業時よりもかなり良くなってきた。立派に自社のホームページも存在する。

何も無かった創業当初からすれば隔世の感がある、そう思う。

創業時は吹けば飛ぶような、泡のような存在が、今では立派に自立していることは、これまでの結果として評価できる。

全ては「パンドラの箱」に残された「希望」を信じた結果であり、この姿勢を堅持する限り、ベンチャーは弛まなく成長し、飛躍していく。

そんなときめきを予感する今日この頃。

  

2004 年 12 月 21 日 : Imagination

日頃お世話になっている方々から励ましの言葉をいただく。とてもありがたく感謝している。

ある方は「世界ナンバー 1 を目標にせよ」と、また、ある方は「大企業に少しでも近づくように」とおっしゃる。

この 2 通りの発言には、似て非なる大きな違いがあると思っている。

「大企業に少しでも近づくように」という発想で企業経営をしていれば、いつまで経っても零細企業であり続ける確率が高い。むしろ、既存の大企業を凌駕するくらいの勢いで、常日頃から大志を抱いて経営に励むことのほうが、永遠の企業へと近づける方法ではないだろうか。

思いもよらない幸運というのは、稀なことだからそういうのである。日常で起こっているほとんどのことは自分の思いの範囲内かもしれない。思いや夢、そしてビジョンを大きく描くことができれば、それだけ達成できることも大きなものとなる。

想像力というものは、経営者にとって極めて大切なスキルである。

見えないものをもう既に実現しているくらいに思いを描くこと。

イメージをビジョンにすること。

〜 ご存知の方も多いと思うけれど、これは、最近読んだ素朴なストーリーであるゆえに考えさせられた本の例である 〜

最近、IT ベンチャーの話題を、新聞、雑誌、テレビなどで知る機会が多く、様々な波があるようだ。ほとんどのネットベンチャーが国内での活動に終始し、世界的な視野でものごとを捉えていないんじゃないかと思う。

Yahoo! や Amazon ような海外の有力ネットベンチャーが、鎌倉時代の「元寇」のように日本に進出してくることは間違いない。その時、日本のネットベンチャーが、どのように防戦に回るのかが見ものである。

ソフィア・クレイドルの業種はソフトウェア業であり、最初から世界を舞台にしていないと結局は生き残れないので、それを前提にして経営をしている。開発している製品が、世界中の人々に評価され、支持され、愛されるようにと。

厳しい局面にも遭遇するだろう。

厳しさの中で育っていくことができれば、世界的な事業だから、正しく地球規模のスケール感に満ちたワクワク&ドキドキの仕事となろう。

いまはその夜明けなのかもしれない。

  

2004 年 12 月 05 日 : Chariots of fire

受験生に負けないくらいの勉強をしている。

何のために?

例えば、オリンピックの 100 メートル走の決勝レースで、金メダルを競うアスリートたち。それは僅か 10 秒足らずの出来事である。その瞬間、最初にゴールに到達したものにだけ金メダルが授与される。でも、10 秒足らずの、レースの裏には、4 年間の準備期間が隠れている。最も、綿密に、緻密に練られた計画を立て、実践してきたものが金メダリストとなる。

自分でやっていて思うのだけど、経営者の仕事もこれに近いのじゃないかな。一瞬一瞬の意思決定のために、その何百倍にも及ぶ勉強や研究がある。一つの意思決定のミスで会社が傾くことがあり得るだけに。

成長期にある会社は、マスコミなどのメディアから注目されたり、脚光を浴びることも多いけれど、あっという間に失墜することも多いのだ。急成長しているだけに、1 つの判断ミスが致命傷になってしまう。

経営者が勉強すべきものは、科目で言うと、仕事の専門分野はもちろん、経営、歴史、哲学、心理学、芸術など多岐にわたる。この世の森羅万象はそれこそ幅広いのだから。いくら時間があっても足りない。

業務の 99% は勉強といった感じである。学生時代の 100 倍は勉強しているのではないだろうか。まあ、それもブレークスルーを起こして、世界を変革し、会社や社会を発展に導きたい、という願いが根底にあるから、辛くはないのだけれども。

起業家は、世界に次々と起こる技術革新や新奇な事柄に、興味を見出して、学んだり、研究することが、楽しくできる資質の持ち主に向いた職業かもしれない。

アスリートのように、瞬間的な達成感がひとつのゴールである。

それを目指して勉強しているわけだ。

  
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