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Sophia Cradle IncorporatedPresident Blog : Philosophy

2006 年 01 月 22 日 : Try

はっきりとカタチになって見えるものは確かに安心できる。

でも僕たちの前にカタチとなって現われている存在は有限なものに過ぎない。

それ故に、そんなものだけを目標にして追いかけていれば、時間の問題で有限な世界の上限の壁に跳ね返されてしまう。

それは記録に残っている何千年もの歴史が証明している自明の理なのである。

だからベンチャーの起業では、売上とか利益とか時価総額など、上限のある世界ではなくて果てしなくひろがる世界をイメージして、事業を展開することが何よりも優先されるだろう。

ベンチャーの存在意義は、新しい価値を創造するところにあると信じている。

数値として表現できないほど、無限の価値を持つものを創造する。そして未来にわたって世界の人びとに、それを伝えることができたなら、そのベンチャーは真に成功したといえるのではないだろうか。

それは創業して 5 年以内に株式上場するという目標よりも、遥かに高い志だと思う。

僕たちは地球という有限な空間の存在でしかないけれど、時間の軸は無限に伸びている。

無限に伸びる、自己を超越した遥か彼方にある世界において、自分の創造するいまはインビジブルな新しい価値を、どう位置づけてゆくかが大事なことなのだ。

  

2006 年 01 月 08 日 : First impression

初めて観たり、聴いたり、触れたり、味わったり・・・。

そんな時、人が本能的に悟る "first impression" ほど大切にすべきものはないと思っている。

なぜなら、生き物としての本能は「何が本物で何が偽物か?」を正しく判断する才能だから。

それでは、人が "first impression" で悟るものとは何か?

テレパシーというか・・・。

なんとなく人々は心と心に絆があって繋がっているような気がする。

見えない絆によって、何かに初めて触れた瞬間、それが創られた時のオモイ("思い、思考"と"想い")を、心は素直に感じ取る。

生活のための割り切って働いた結果生まれるモノ、夢と希望を持ち自分の限界のチャレンジした結果生まれるモノ、・・・

モノには生まれることになった背景が必ずある。

そこにあるオモイ(思い/想い)は隠しようがない。

モノを見た瞬間、人の心はそれを敏感に悟る。

機能は全く同じなのに、売れるものもあれば、売れないものもある。

その差はどこから生まれるのか?

それは、何かを創造する時、夢と希望に満ちた、無限の可能性を秘めたオモイをどれくらい注ぎ込んだかで運命付けられるだろう。

陽水の「カナディアン アコーデオン」という詞に、

 "無数に舞い散る粉雪が風を形にして見せる"

という美しいフレーズがあるけど、人によって創られたものはそんな風にその人の"思い"を形にしたものなんだと思う。 

  

2006 年 01 月 07 日 : 何億年もむこうから

人生五十年
化転のうちにくらぶれば 
夢まぼろしの如くなり 
一度生をうけ 
滅せぬもののあるべきか?

1560年6月12日(永禄3年5月19日)、歴史を変えた"桶狭間の戦い"の直前に、織田信長が舞ったと伝わる、幸若の舞「敦盛」である。

真偽は定かじゃないけれど、150 億年といわれる広大な宇宙の歴史からすれば、僕たちの人生って、ほんの一瞬の些細な出来事に過ぎない。

仮に 150 年生きることができたとしても、宇宙的視野から壮大に眺めれば 1 億分の 1 なのだから …

たとえ短い人生でも何か足跡と呼べるものを残すことができれば、凄い、素敵、最高だね! という思いへと繋がってくる。

眩い都会の夜景からは星影を望むべくもないけれど。

遥か彼方の宇宙空間から僕たちの地球に届く星の輝きは何億年、何十億年も前の瞬間的な出来事なんだという事実に愕然としたりする。

願わくば、そんな星の輝きに相当するような価値ある活動に人生を捧げたいものである。

  

2006 年 01 月 04 日 : 自信

小さな出来事なら自信を持ちやすくて簡単に成功できる。誰もがそんな経験を持っていると思う。

人生を左右する一大事の場合、同じように自信を持って挑めるだろうか。

そういう時にこそ、急に道が拓けたり晴れたりして、今まで気付かなかった新しい偉大な才能が開花するのかもしれない。

多くの人は人生の一大事の場面に遭遇すると、権威あるものについ頼りたくなる。自分の力だけでそれを乗り越えることが千載一遇のチャンスだったかもしれないのに・・・。

個人にしても企業にしても、多くの人びとが権威ある大企業の傘下に入って働く道を選ぼうとする。その方が自分の才能をフルに発揮できるならそれは良い選択である。

スポーツでもプロフェッショナルな世界で超一流といわれる選手は、厳しいトレーニングの結果として彼或いは彼女の栄光があるのだと思う。

日々の仕事の場も同じ事が言えるのではないか。困難があるならそれを乗り越えようと努力する。

その瞬間、瞬間に、新しい才能が開花してゆく。それが成長の軌跡であると思える。

「夢はかなう。思いは実現する」

思い通りの成功の軌跡が描けるかどうかは自分へ自信の度合いで決まるだろう。

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2005 年 12 月 29 日 : 5・7・5・7・7

短歌とは五・七・五・七・七の五句体の歌である。7 世紀後半から 8 世紀後半に編まれた『万葉集』に始まり、今もなお詠まれている、古来から続く日本の伝統文化である。

わずか 31 文字で構成される歌なのだけども、一文字一文字を組み合わせれば星の数ほど無限のバリエーションが出来上がってしまう。

大半は当たり前のように淘汰される平凡な歌かもしれない。でも『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』といった著名な和歌集の中のひとつの歌として、何百年、何千年にも後世に残るものもある。それは新奇さやザンシンさも内包していた。

こんな風に短歌を眺めていると、仕事のスタンスやアプローチにも変化が現れてくる。

ひとつは小金になる平凡な仕事をたくさんこなして儲かるけれども、未来の歴史には何も残らないやり方。もうひとつは、短歌の例で言えば、五・七・五・七・七の 31 文字にすべての生涯を捧げ、永遠の一句を残そうとするやり方。

両極端な例であるが、僕は後者の生き方を目指したいと考えている。有限の時間軸上での仕事の集積は有限でしかないが、無限の生命を持ち得る作品は無限の時間軸上であれば、一時の数は少なくても無限の時間で集積すると必ず無限大になる。

自分が生きている間だけでなく、ずっと永遠に続く何かを創造できればそれに勝るものは無いのではないだろうか。

『永遠の何か』を創造するためには大切なことって何だろうか?

最近、この問題について自問する日々が続く。

飽きなくて、品が良く、質も良い。

こんな条件を満足する作品が創造できればと願っている。そのためには、短歌の作者がたった 31 文字のひとつの歌に情熱を傾ける姿勢がヒントになるだろう。駄作を量産するよりも、ひとつの仕事でもいい。何度も何度も見直して日々改善を図り、最高傑作を世に送り出せるようなアプローチを継続したい。

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2005 年 10 月 14 日 : ミュージック

Gackt の"DIABOLOS"。例えば今日はこんな曲を聴きながら空を逍遥するような感じで仕事している。

大企業だったら、部長がケツメイシ、サザン、いま話題の NANA のサウンドトラックなんか聴きながら仕事している姿って想像し難い。学生や会社員だった、あの頃の同期のエリートとは一風変わった人生を送っていると我ながら思う。

これまで確かに苦い経験もし、数え切れないほど乗り越えねばならない壁があった。創業初年度は音楽の「お」の字すら無かった。独創的で素敵な製品やサービスがナチュラルに生まれ、そして多くのお客様のもとへと届くようになった。お陰様で、今ではそれがソフィア・クレイドルのスタイルとして定着しつつある。

自分を偽って慣れない受験勉強に励めば、自分の意志に背くような仕事をこなしていた時期もあった。現在への分岐点は何時だったのか。それは定かでない。

振り返ってみて気付くことがある。壁を乗り越えるごとに自分の自由度が増すという事実である。その自分の壁を乗り越えるためには、勇気や意志、優しさといった"心の有り様"が決め手になる。

音楽を聴く度に心豊かになる実感を受けとめることができる。

そんな今日この頃。

  

2005 年 10 月 12 日 : 胡蝶の夢

荘子の斉物論篇に"胡蝶の夢"という話がある。

荘周(荘子の著者)が夢の中で我を忘れて胡蝶として楽しげに心ゆくままに空を飛んでいた。けれども目覚めると胡蝶ではなくて自分は荘周そのものであることに気付く。胡蝶が夢の中で荘周でいるのか、あるいは荘周が夢をみて胡蝶であるのか。その区別がつかないのは何故だろう。

荘子ではあらゆるものついて差別や区別はなくてすべてが等しい価値を持つという万物斉同という思想が一貫して流れている。

胡蝶の夢の話で面白いと思ったのは夢も現実も等しく同じとする考え方である。そんなことは現実離れした夢幻だと最初から諦められていることが多いのではないだろうか。

夢が現実なのか現実が夢なのか荘子によれば定かではない。等しく同じものと見なすこともできる。そんな風にとらえる方が希望が持ててなんとなく元気がわいてくる。

客観的にはソフィア・クレイドルが創造しようとしているモノは夢の話かもしれない。逆に現実と夢を同一視して現実から覚醒して夢の中へいってみるのもひとつの発想の転換ではないだろうか。

  
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