2006 年 03 月 21 日 : 以心伝心
人の心はカタチあるものとしてイメージするなら、それは時間軸上に上下に振幅する波の形をした曲線のように思う。
気分の良いときもあれば悪いときもある。悲しいときもあれば楽しいときだってある。
人の心は緩やかにダイナミックに上昇したり下降したりしながら、波のカタチをして前進するものだ。
波は、数学的に波動方程式というもので表され、その解は sin や cos といった三角関数の合成で表現されると大学で学んだ。
単一の sin や cos が描く曲線はシンプルで単純極まりないけれど、それらを組み合わせると様々な形をした波が観測できるのが不思議ではある。
何事においても、きっとものごとの基本はシンプルでクールなのだ。
大学で数学を学んでいた当時、学問としては理解できたけれど、自分の人生においてどんな風に応用できるのか全く見当も付かなかった。
でも現実のビジネスの世界では、実際にそんな方程式を解くことによって成功したり失敗したりという感じがする。
具体的にはこんな感じである。
ベンチャービジネスで最大の難関は、ブランドも知名度も実績も無く如何にして研究開発したものが人々に選ばれるかという一点に尽きるだろう。
これは人の心の様相と密接に連動する問題である、と僕は捉えている。
音楽にしても、映画にしても、文学作品にしても、人々はそれを鑑賞することで心の波形に変化が現れる。
それがその音楽、映画、文学作品の波のカタチだ。
ある時、完璧な瞬間に、そんな波が人の心の波形とシンクロし共鳴することで波形は増幅する。
人の心と対象となるものの波のカタチを表現する、その二つの波動方程式に共通する解が見出された時、それはきっと選ばれるのではないだろうか。
二つの連立方程式に共通の解があることは、心とその対象のシンクロを意味する。
言い換えれば「それってなんとなくいいね」という思う瞬間である。
シンクロナイズされた共感のポイントを出発点として、新たな発見をし感動や感激といった心の高揚感を得る。
共通の接点から出発して、互いの曲線を辿ったときに新しい世界を感じることが出来るなら。そんな創造的なモノは、きっと人々から選ばれるに違いないし、ベンチャーを創めるひとつの理由と言えるかもしれない。
2006 年 03 月 14 日 : 借景
自然ほど雄大で永遠なものもない。
そんな自然を取り込むことができれば、という発想が京都には昔からあった。
遠くに見える山や樹木を背景にして、あたかもそれらも庭の一部であるかのようにしてしまう、庭園の思想や技法のことを借景という。
嵐山を借景にした天竜寺の庭園は、春は桜、秋は紅葉、と四季折々の自然の美しさが楽しめる。
人の創造するものは有限であるからこそ、自然を取り込むことで無限にひろがる何かが生まれる、この発想は偉大だと思う。
ソフィア・クレイドルは、世界の人々に選ばれるベーシック(クラシックでモダン)なソフトウェアテクノロジーを創り出す点に最大の目標を置いている。
素敵な何かを創り出すためには、既に出来上がっている何らかの偉大な力を借景にする考え方も大切だと感じる。
2006 年 03 月 12 日 : 京都の発想
京都の書店に立ち寄った時、たまたま「京都人の商法」(蒲田春樹著)という本が視界に映った。
〜「伝統」と「革新」を両立させるビジネス感覚に学ぶ〜
という副題が付いていた。
クラシカルなイノベーションを創造したいと思って、京都という地に起業しただけに思わず購入してしまった。
期待以上にいろんな示唆が得られる一冊だった。
「東京は逍遥するには刺激的すぎるでしょう。京都はその点では人を独創的なアイディアに導く散歩道がひじょうに多いのです。人は静かな裏町を歩くことで、自由に己の想念を羽ばたかせることができるのです」
「ひとりになるとは、情報を遮断して、自らを思索の底へと沈み込んでいく作業である。人が真に思索にのめり込もうとしているとき、他者は邪魔な存在となる。情報を交換するということが思索を妨げるからだ。
アインシュタインが相対性理論を発見したとき、彼は三日間、自分の部屋から出てこなかったという。哲学、科学、宗教、芸術、これら知のワークは孤高の産物である。他者対応から独自へ、浅いネットワークからシンク・アローンへ、時代の新しい趨勢は孤高である」
「日本画、それも墨で描いた水墨画には、たとえば、崖とか巌頭に一羽の鳥が止まっている構図とか、枯れ柳に一羽のサギというような構図が多いでしょう。こういった構図に出合ったら、この鳥の目の向いているところを見てください。この鳥の目は画面、いわばキャンバスの範囲の外に向いていることが多いのです」
「・・・、われ、ただ、足るを知るという謙虚なよい言葉が出てきます。足るを知る。不要なものはそぎ落とし、いろんな工夫のなかに大きな世界を創造させる」
「素材をどこまでも少なくして、ついには石と砂だけで創り出す”そぎ落としの美学”が竜安寺の庭園には見てとれる。
・・・
それは多くをあきらめて一つに絞っていくという、デザインにおける”レスの概念”である。エレメントをそぎ落としたときに、人は何によって美を創りだしてゆくか。答えは”人の知恵”である」
自分でも無意識のうちに行動していることが、この書籍には随所に記されていて、なるほどと思うことが多かった。
2006 年 01 月 21 日 : 刻まれた歪な曲線
"掌に刻まれた歪な曲線
何らかの意味を持って生まれてきた証 ・・・ "
( Lyric by Kazutoshi Sakurai 2003 )
この一週間は久々の忙しさだった。
ある意味では、ようやくエンジンが動き出したのかもしれない。
当分の間こんな日々が続きそうだ。
束の間の休息は、冒頭に記したメッセージで始まる曲の DVD の映像を眺めつつ、新たな発想を求めてさまざまな幻影が頭を翳める。
中学生の頃、最も関心を強く抱いたのは数学だった。
さまざまな関数を組み合わせることで出来る曲線がただ面白かった。
次第にそんな数学の関数に興味を持ち、その意味を探るべく、大学では数学を世の中に活かす術についての研究を志した。
大学を卒業して社会に出てからは、数学とは全く無縁の世界に身を置いていた。
でも、いまでは数学と関係のあるビジネスができているのでワクワクしている。
それは携帯電話のアプリで
y = sin x
を始めとする、さまざまな数学的な関数を利用可能にする技術を具体的な例として、世界に情報発信できる日が間もないからである。
以前からソフィア・クレイドルの WEB では、その技術を情報発信していたが、実際のプログラムコードの発表は世界で初めてだ。
では、携帯での y = sin x がどんな意味があるっていうの?
というのがほとんどの人々の感想かもしれない。
それ故にだからこそ、そんな仕事はベンチャーに似合ってるんだと思う。
多くの人は y = sin x が波形の曲線を描くのは知っているけど、それが何なのかということを想像するものは少ないだろう。
波形の曲線は"強"と"弱"の繰り返しをイメージさせる。
音声や画像、株価の変動など日常生活で数え切れないほど、"強"と"弱"のリズムが繰り返される。
要するに 携帯での y = sin x が意味するものは、それが携帯電話で現実となることなのだ。
人の声の認識や顔の認証、画像の圧縮・伸張、株価の変動、高度な暗号化などでは y = sin x が不可欠なのである。
たったこれだけに過ぎないのだけれども、その威力は偉大である。
空気に含まれる酸素は、単にひとつの元素でしかないけれど、地球上の生命にとって欠くべからざる存在である。
そんなものを捜し求め、そして発見するのが研究開発型ベンチャーの最高の喜びかもしれない。
2006 年 01 月 11 日 : 全力疾走の後
誰しも滅多に経験しえない出来事に遭遇して感動したり、感激したりすることがあると思う。
願わくば、僕たちの仕事も人々の胸を揺さぶるような感情を創造するようなものでありたい。
そんな場面は日常生活において滅多に出会えるものではないから、それだけの付加価値があるのだ。
感動や感激を創り出す秘訣って一体全体どこにあるんだろうか?というような問い掛けはベンチャー起業家としての宿命かもしれない。
僕はこんな風に考えている。
要するに人を驚かすためには違った角度から世界を眺望しなければならない。人と同じような視線からは当たり前の平凡なモノしか見えない。
違った視線といってもほんの少しでいいのがミソなのだ。
例えば、2 メートルの高さの壁があったとする、2 メートル以下の身長の人には向こう側は何も見えないけれども、台の上に乗って視線が 2 メートルを超えれば向こう側の景色も目に入ってくる。
仕事の例で言えば、こんな感じであろうか。
身体がもう動かないほどヘトヘトになるまで 8 時間集中して全力疾走して働いてみる。その後、どのような行動に出るかがきっと運命の境界線となるだろう。
大抵の人はそこで仕事を終えてしまう。
ごくわずかだけれども、ある人は人の限界を超え、そのまま続けて仕事をする。
そんな習慣を継続するうちに、ある日突然新しい視界が彼もしくは彼女の目前にひろがる。
それは普段目にしない光景だけに感動や感激といった尊いものへと繋がってゆくだろう。
2006 年 01 月 08 日 : First impression
初めて観たり、聴いたり、触れたり、味わったり・・・。
そんな時、人が本能的に悟る "first impression" ほど大切にすべきものはないと思っている。
なぜなら、生き物としての本能は「何が本物で何が偽物か?」を正しく判断する才能だから。
それでは、人が "first impression" で悟るものとは何か?
テレパシーというか・・・。
なんとなく人々は心と心に絆があって繋がっているような気がする。
見えない絆によって、何かに初めて触れた瞬間、それが創られた時のオモイ("思い、思考"と"想い")を、心は素直に感じ取る。
生活のための割り切って働いた結果生まれるモノ、夢と希望を持ち自分の限界のチャレンジした結果生まれるモノ、・・・
モノには生まれることになった背景が必ずある。
そこにあるオモイ(思い/想い)は隠しようがない。
モノを見た瞬間、人の心はそれを敏感に悟る。
機能は全く同じなのに、売れるものもあれば、売れないものもある。
その差はどこから生まれるのか?
それは、何かを創造する時、夢と希望に満ちた、無限の可能性を秘めたオモイをどれくらい注ぎ込んだかで運命付けられるだろう。
陽水の「カナディアン アコーデオン」という詞に、
"無数に舞い散る粉雪が風を形にして見せる"
という美しいフレーズがあるけど、人によって創られたものはそんな風にその人の"思い"を形にしたものなんだと思う。
2005 年 12 月 18 日 : 蘇生
最近、"IT'S A WONDERFUL WORLD : MR. CHILDREN"に収録されている"蘇生"をよく聴く。
二車線の国道をまたぐように架かる虹を
自分のものにしようとして
カメラ向けた
光っていて大きくて
透けてる三色の虹に
ピントが上手く合わずに
やがて虹は消えた
胸を揺さぶる憧れや理想は
やっと手にした瞬間に その姿消すんだ
でも何度でも 何度でも
僕は生まれ変わって行く
そしていつか君と見た夢の続きを
・・・・・・・・・
何度でも 何度でも
僕は生まれ変わって行ける
そうだ まだやりかけの未来がある
(Lyric by 桜井和寿 2002)
この部分に妙にシンクロしてしまう。
ソフトウェア製品を研究開発し販売する事業を展開しているのだけれども、ソフトウェアというのは蘇生の繰り返しとも言える。ハイセンス、ハイクオリティを求めて、これまでに幾度となく製品を蘇生させてきた。
2005 年も例に漏れずそんな 1 年だった。
ほとんどの仕事は、現在ではなく 2006 年以降の未来への"夢"と"希望"を託した、過去のソフトウェアの蘇生そのものだった。
創業以来、製品は 3 回、ホームページは 5 回も繰り返し蘇生している。
ひとつだけ確かに言えるのは、蘇生の度にハイセンス或いはハイクオリティの方向に向かって飛躍している実感である。
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