2006 年 06 月 14 日 : 理論と実践
現実世界で真に役立つ製品を研究開発し、マーケティングしてひろめること。
突き詰めて考えればこのポイントさえ押さえれば、ベンチャーといえども確実な成長が望めそうである。
「現実世界で真に役立つ」というのは、「実践的」という言葉で置き換えることもできる。
使える代物なのかどうかは、直接利用するお客様と対話するプロセスから自ずと明らかになってくる。
資源の限られるベンチャーでは、研究開発したモノが売れるものなのかどうかを、後になって検証するのでは失敗する確率が高くなるように思える。
なんらかの科学的なアプローチ、理論的な何かで可能な限り確かなものとしてから研究開発し、検証のプロセスは確認するというようにしたい。
明日をも知れぬというよりも寧ろ、5年先、10年先までも鮮明な映像として思い浮かべる必要がある。
学校で習う学問の大半は、結論が決まっていて安心して興味深く学ぶことができる。
実は、実際のビジネスも学問のように理論というものがあって、それに基づいた経営をすれば必ず思い通りにいくものかもしれない。
そこで、ヒントになる発想は、そもそも学問の体系として完成しているものはどのようにして出来たのだろうかという見方である。
何千年もの長きに渡っての先人たちの実践を通じて、普遍的な原理原則として纏め上げられたものが学問なのではないだろうか。
経営という概念は、誕生してから 100 年も経たないほどまだまだ新しい存在である。
だから、理論化されるまでには実践というプロセスがきっと必要なのだろう。
2006 年 06 月 09 日 : Standard
高校時代、書道の時間に、「不動心」という言葉を飽きることなく何枚も何枚も書いていた頃が懐かしい。
当時、この言葉に対する認識はいまと比較するべくもなく浅かった。
全くというほど分かっていなかったけど、記憶の中に残っているのが不思議ではあり、これが潜在意識というのだろうか。
会社を経営していると、不確実なものに対して、確かなる実感を抱いて意思決定するという局面が多々訪れる。
況して、ソフィア・クレイドルのように業界初という代物を世界マーケットに送り出そうものなら、そんな出来事の連続で、それを点と点に繋げてゆけば複雑に入り組んだ曲線にもなろうかというほどだ。
何事もなるべくしてなる、という天才がいるのは事実かもしれないけれど、そこには何かが潜んでいるような気がしてならない。
世界は意思決定し行動することによって変化してゆくものではないだろうか。
行動こそが変化の直接的要因であり、その元を辿れば、それは当事者である本人の意思決定の判断基準に帰着されることが容易に分かる。
意思決定のための判断基準とは、その人の人格そのもののと言えるかもしれない。
想い描くシナリオを実現できる人とできない人の差は何だろう。
これこそが重要なポイントである、と僕は考える。
真・善・美という、基本となる三軸を知って照らし合わせて、常にマキシマムな状態にあり、ブレはないかどうか。更に言えば、一点の曇りもないかどうか。
日頃から心掛けたいのは、そういった心の状態を不動のものにするということである。
2006 年 06 月 07 日 : Objective of technology
ソフィア・クレイドルは研究開発型ベンチャーであり、現在はモバイルという分野におけるソフト技術で新しき何かを追い求めて事業を展開している。
だから「技術(テクノロジー)」という言葉にはとりわけ敏感である。
そもそも、「技術って何?」と真剣に問い掛ける人も珍しいくらいに有り触れた言葉なんだけれど、そんな問い掛けから、研究開発型ベンチャーはスタートすべきかもしれない。
一般には、"技術"とはモノやサービスを創り出す方法のことであり、その目的は人間を原始的な暮らしからより豊かな文化ある生活へと導くためのもののようだ。
技術があったから、生活も良き方向に変化したし、新たな技術の誕生がある限り、人々の生活の進化発展はきっと継続するだろう。
それくらいに技術は人類に大きな影響を及ぼしているのにもかかわらず、一般的には無頓着な捉え方しかなされていないようにも感じられる。
技術開発に携わる人たちの世界においてさえ、そういった傾向が見受けられるくらいである。
では、ソフィア・クレイドルの R & D で大切にしたい考え方は、その技術が如何にして人々の生活を革新し得るのだろうかという洞察である。
言い換えれば、この技術によって、人々がどれくらい素敵な景色を初めて眺めえるのだろうかという想像である。
2006 年 04 月 16 日 : Quite something
ベンチャー故に、絞り込んだ領域でソフトウェアに関する研究開発事業を営んでいる。
常に心掛けているのは "something" という雰囲気かもしれない。
何を意味するのかと言えば、さまざまな障壁を乗り越えて生まれた作品が、瞬間的に分かるようなものじゃつまらない・・・という発想である。
何か得体の知れぬもの。
世界を観察していると、ロングセラーと言われるものほどそんなオーラに満ちている。
誰にでも分かり易くプレゼンすべきなのかもしれないけど、"quite something"なものはきっと一筋縄ではいかないのだろう。
何故なら使う人の環境によって、それは生き物のように七変化するからだ。
そんなものがひとつでも創造できれば、心の充足感は計りしれないほどと思う。
だからこそベンチャーをする意義があるのかもしれない。
2006 年 04 月 16 日 : Virtual reality
ネットからダウンロードした曲に耳を傾けながら、同じ曲なんだけれどそのときの心の様相によってさまざまな仮想現実が時々刻々と生まれては消えている。
これといって物理的で素敵な何かを求めるわけではない。漠然と想像力豊かにしてくれるものを自然と探し求めている。
21 世紀という新しい時代は、なんとなくそんな方向に動き出している実感を得ている。
y=F(x)
同じ関数 F でも x の値が異なれば、F の作用による x の結果 y の値もさまざまに変化する。
数学的にはそんな F のようなモノを創り出すことが僕の目標の一つでもある。
できれば結果である y の値は、それぞれのオリジナルとも言える x にとって最高にしたいという思いが確かにある。
2006 年 04 月 15 日 : Resonance
インターネットの時代で、最も心せねばならないのはスピード感ではないだろうか。
アインシュタインの特殊相対性理論によれば、物体は光のスピードを超えることができないと言う。
物理学での物体には質量が伴うが、人の意識や感情にはそれに相当するものが無い。
だからひょっとすると、そこには超光速の SF 的な世界がひろがっているのかもしれない。
インターネットビジネスの例ではこんな感じだ。
ネットの世界では、場所を異にする複数の人々が、同時にある情報を見て感じ思考し判断する。
その瞬間起こる興味深いことは、物理的に離れた人と人が共感するという現象である。
インターネットは、世界中遠くに離れた人々の意識が、光速を超えて共鳴し得るという事実を示唆しているように思える。
新しい時代では光速を超えたスピードで世界が変わるのかもしれない。
それだけにネットにおける情報発信の意義は高まるだろう。
2006 年 04 月 06 日 : Hypothesis
先日の日記にも記したが、地球上の物質を分解していくと、6 つのクオークと 6 つのレプトンと言われる素粒子に辿り着く。
これらの素粒子はいつから存在していたのかと考えてみると面白いことに気付く。
確かに言えるのは、素粒子から構成される生命の創まり以前から既に存在していたという仮説である。
換言すれば、より単純で根源的なモノの方が永遠に近いということだ。
ゴーイングコンサーン、企業会計の世界では「企業活動は永遠に続く」という仮定の下に理論が展開される。
それは取りも直さず企業そのものの根本的な何かを求める活動にヒントが隠されている、と僕は考えている。