2006 年 03 月 08 日 : パラダイム転換
サラリーマンを辞めて起業した時、働くのは同じなんだけれども世界観のパラダイムを転換する必要性を痛感した。
それはこんなことだ。
サラリーマンならば 1 ヶ月働けば、月給 50 万円とかの収入が確実に見込める。
起業するとなると、収入というものは自分の力で受注し商品やサービスを納品した瞬間にしかやってこない。
その時、 50 万円とか、何がしかのお金が入ってきたりするのだ。
そんな瞬間が永遠に訪れそうもない状況に遭遇するかもしれない。
実際には、そんなケースの方が圧倒的に大多数を占めるものと思う。
けれども、やりようによっては 1 ヶ月の間にそんな祝福すべき瞬間を数限りなく迎えることだって可能なのだ。
その限界にチャレンジするのは、ベンチャービジネスの醍醐味の一つだ。
ビジネスの結果が、サラリーマン時代の月給を上回ることもあれば、下回るこもある。
大抵の場合、創業の頃ほどサラリーマン時代の収入を下回る屈辱の日々かもしれない。特に、研究開発型ベンチャーでは、少なくとも最初の数ヶ月間というものは売上ゼロの連続である。
土壇場では強靭な精神力が要求される。
どん底からどうやって自分だけの力を信じて這い上がるかが全てなのだ。
前に進んでいる限り、昨日より今日、今日より明日なんだという認識をすべきだろう。
きっと目には見えないけれども小さな進歩の積み重ねが3年後、5年後、10年後…に活きてくるという信念を持ち続けられるか否かが肝心なんだろうなと感じる。
ベンチャーの環境は想像以上に厳しく険しい。
それ故に、ベンチャーという環境に己を置くだけで、1 年、2 年、3 年…と年を重ねる度に自分自身が加速するように成長していることに気が付くだろう。
同様に、商品やサービスも時と共に飛躍的に良き方向に向かって走り出す。
だからこそ、ベンチャービジネスでは長く続けるというポリシーが大切なんだと思う。
2006 年 01 月 24 日 : Web 2.0 & Database ?
たまたまネットサーフィンしていたら、
"Web 2.0 の時代ではデータベースが重要だ"
という至極当然なことが書かれていた。
コンピューターが情報システムと呼ばれることになった 1960 年代から今日に至るまで、コンピューターシステムにおいて、データベースはずっと変わることなく根幹を成すものである。
だからデータベースのハイテクベンチャー、米国オラクル社は急成長を遂げた。
むしろ大切な発想は、もっと掘り下げて洞察し、データベースという概念をどのように位置付けるかだろう。
人の心に触れる出来事は、人それぞれの視点や感性によって天と地ほどの開きが生まれる。
それは、同じ出来事でも、あるフィルターを通すことで全く異なる新たな価値が生まれるということを意味する。
世界中でネットが広く普及し、以前にも増してさまざまな人々が利用するネット社会では、データに対する解釈やさまざまデータの組み合わせの中に偉大な価値を見出せるようになるだろう。
それこそが新しい Web システムにおけるデータベースのエッセンスだと思う。
2006 年 01 月 14 日 : 逆光に輝くもの
逆光による撮影では被写体は黒ずんでよく見えない。だから通常は逆光を避けて撮影する。
ネットで調べると、逆光の中にある被写体をうまく撮影するテクニックもあるらしい。
広葉樹の葉を逆光で撮ると、透き通るような緑の美しい葉が撮れたりもするという。
ベンチャー経営もなんとなくそれに似ているなと思った。
世界広しといえども、ソフィア・クレイドルと同じ事業を営んでいる企業は見当たらない。
敢えて逆光が射すような事業を選択したのだから、当然といえば当然なのではあるけれど・・・。
たとえるなら、これはある種の不治の病の治療法を探究している医師の姿に近いかもしれない。
仮に治療法が発見された時、その難病に苦しんでいる世界の人々の喜びは如何ほどか想像に難くない。
そんな風に、僕たちの事業が世界の人びとに受け入れられるのは想像するだけでも愉快なことである。
2006 年 01 月 09 日 : 波紋
遠いようですぐ近くにある少年時代の日々。
遥か向こうに見える川岸めがけて、小石を何度も何度も投げていた。
水面を石が何度か飛び跳ねて駆け抜ける時に、ダイナミックに出来上がってゆく、いくつかの同心円状の波模様。それらには飽きるのに困らないほどのパターンがあった。
石を投げる時のスピードや角度、石の形によって、実に多様な波紋を観察できたのを覚えている。
あたかもその瞬間に抱いた"思い"がそのまま様々に水面に映し出されるかのようだった。
同様に何度も繰り返される、単純そうに見える日々の仕事も、なんとなくそれに似ていると思えてくる。
近くからは全貌を知ることが出来ないのだけれど、改竄されない限り、遠くからはかえってはっきりと見えてしまうということである。
僕たちの外界と接触する最初の仕事は、創ったソフトについて伝えるべきメッセージをかたちのあるものに表現して、それをネットという空間に向けて投げかけるというものだ。
そのとき、ネットに映し出される波紋の美しさは、単純そうに見えるメッセージであったにしても、それに込めた"思い"によって天と地ほどの開きがあると思う。
間違いなく、メッセージに込められた"思い"はそれを読む人にダイレクトに伝わる。
2006 年 01 月 07 日 : 何億年もむこうから
人生五十年
化転のうちにくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
一度生をうけ
滅せぬもののあるべきか?
1560年6月12日(永禄3年5月19日)、歴史を変えた"桶狭間の戦い"の直前に、織田信長が舞ったと伝わる、幸若の舞「敦盛」である。
真偽は定かじゃないけれど、150 億年といわれる広大な宇宙の歴史からすれば、僕たちの人生って、ほんの一瞬の些細な出来事に過ぎない。
仮に 150 年生きることができたとしても、宇宙的視野から壮大に眺めれば 1 億分の 1 なのだから …
たとえ短い人生でも何か足跡と呼べるものを残すことができれば、凄い、素敵、最高だね! という思いへと繋がってくる。
眩い都会の夜景からは星影を望むべくもないけれど。
遥か彼方の宇宙空間から僕たちの地球に届く星の輝きは何億年、何十億年も前の瞬間的な出来事なんだという事実に愕然としたりする。
願わくば、そんな星の輝きに相当するような価値ある活動に人生を捧げたいものである。
2005 年 12 月 29 日 : 私的読書術
生命は有限だけれど、人が創り出したある種の"コンセプト"は時を超えて生き永らえる可能性を秘めている。
人と動物の間にある最も大きな差は、そんなところにあるのではないかと個人的に思っている。
だから人生を過ごす上で最も偉大な楽しみというのは無限の生命が宿る"コンセプト"を打ち出せるかという命題への解を探求する、一種の賭けである。
勿論、賭けであるので外してしまう恐れもある。けれども自動車など運転している時に事故に遭遇しないための習慣があるのと同様に、思い通りの結果を導き出すための方法論があるだろう。
ひとつが読書の方法である。
巷には書店に氾濫するほどの本がうず高く積まれている。その中から一冊の本を選んで読書して、人それぞれに楽しんだり生活や仕事に役立てようとしている。
僕自身、毎日多種多様な本を読むが、軽く読み流す本と何度も何度も繰り返し精読する本がある。
大切なのは精読する本を選ぶセンスにあるような気がする。何度も何度も繰り返し読むような本は個人の考え方に多大なインパクトを与える。それによって運命が決まることも無きにしもあらずだ。
座右の書とすべきかどうか。判断の基準はこんなところにあると思う。100 年後、300 年後、或は 1000 年後の未来の世界で、その書籍は人々に読まれているだろうか?
そんな観点から僕はいつも繰り返し精読すべき本をセレクトしている。
ひとつだけ簡単に見分ける方法がある。それは何百年、何千年の時を経て、現在も人々に読まれている古典は何百年先、何千年先の世界においても人々に読まれているだろうという未来予測である。
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2005 年 12 月 10 日 : 時間+空間
「地球を手にとって眺めたい」というような発想は何百年も昔の人びとには有り得なかっただろう。
でも、科学技術が発展した現代に生きる人びとの中には、そんな願いを抱く人は数多くいる。古代と現代で、人びとの世界観は天と地ほど変化しているとも言える。
何がそうさせたのか?
それは飛行機であり、スペースシャトルであり、空や宇宙を高速で駆け抜けてゆく乗り物の発明ではないだろうか。
時折、大空を飛んでゆく飛行機を眺めはするものの、その可能性や意味について想像したり考えるのもたまにはいいものだ。
例えば、大阪から東京までの 500 〜 600 km の距離なら飛行機で 1 時間もあれば十分である。アバウトだけど人が歩く 100 倍のスピードである。逆に言えば、飛行機によって人の足は 100 倍になったという見方もできる。
飛行機の発明があって、人の移動距離の限界が 100 倍に延長され行動範囲が 100 倍に拡張されたということである。桁違いの能力の獲得は、人びとの生活や世界観を変革するものである。
同様に、コンピューターについてもそれは当てはまる事実である。コンピューターは人の頭脳の能力の限界を解き放ってくれるテクノロジーだと思う。そもそも人の頭脳にはムゲンの可能性があるだけに、コンピューターの果たす役割はさらに素敵なものにちがいないと確信してる。
飛行機以上に、人びとの世界観を変革するツールとしてのコンピューターの未来は永遠に果てしなくひろがっている。