2006 年 06 月 15 日 : Turn the tide
20年前、インターネットを利用しているのは大学などの研究者に限られていたし、パソコンを個人で所有している人はマニアくらいであった。携帯電話に至っては、存在すらしていなかった。
インターネット、携帯電話、パソコンが急激な勢いで普及し始めたのは、今から 10 年ほど遡る " 1995 年 " ではないかと個人的に考えている。
僕が初めて当時 " マイコン " と呼ばれるパソコンを購入したのは、1985 年のことだから、その時から 10 年の歳月を経て、これらの IT が日常品化しだした。
そうなるまでは長き 10 年であったけれど、それからの 10 年というものは脱兎の如く過ぎ去っていったように思う。
いまでは形勢は大きく逆転し、インターネット、携帯電話、パソコンなどの IT と無縁な人を探す方が困難なくらいに当たり前のモノへと変貌を遂げてしまった。
20年前、10 年前、いや 5 年前でもいい。
IT がこれほどのスピードで進化発展を遂げ、人々の生活に欠かせない道具になると誰が予測できたであろうか?
恐らく、これらのテクノロジーを発見し、発明した天才ですら想像し得なかった現実ではなかろうか…サイエンスフィクション・サイエンスファンタジーを除いては。
化学実験で異なる物質を混ぜ合わせて化学反応を起こさせることで、元の物質とは全く性質の異なる物質が生成されたりする。
そんな状況に近いのかもしれない。
これから 5 年後、10 年後、 20 年後 ・・・ の未来がどんな風に連続的に変わってゆくのか、とても想像しがたい話ではあるけれど、ひとつだけ確信を持って言える事がある。
それは、いま以上にこれらの IT が進化発展を遂げて、夢のようなことが現実になっているという空想である。
だから、暫くの間はモバイルを中心とした IT に集中特化した事業を展開していても、それほど間違いはないと考えている。
2006 年 06 月 12 日 : 語り継がれる名演
音楽 CD の中には、語り継がれるような名演を収録したものが時々ある。
それは一夜一回限りの演奏だけれども、世界中の人々からその後何十年にも渡って永遠に鑑賞される音楽である。
歴史的には過去のたった数時間の演奏に過ぎないものが、そのままずっと残っている。少なくとも当分の間は人々の記憶から消えそうにない。
勿論、実際にその曲が演奏された現場の生の音楽と比べるべくもないけれども、何分の1かの余韻は続いてゆく。
ソフトウェアの仕事もこれに近いように思っている。
企画、設計、プログラミング、テスト・・・のサイクルが何度も何度も繰り返されて完成度を飛躍させてゆく。
ソフトウェアはそんな性格を帯びたカタチの見えにくい、認識しがたい存在である。
音楽と同じく、ソフトウェアも数え切れぬ程の作品が創られては消えてゆく。
ほんのごく一部の傑作だけが長きに渡って使われ続ける。
もっと多くのソフトウェアがそのような扱いをされても良いのにと思うけれども、実際のところ、それはきっと単にそのように創られていないだけの話であろう。
会社を経営しているといろんな制約や誘惑がある。思い通りに行かない場面も当たり前なほどである。
その時、重要になってくるのは経営のポリシーではないだろうか。
目先の利益のために、いま研究開発しているモノの寿命を短くするようなことをしていないだろうか。
宇宙の時間軸からすれば人生はほんの一瞬に過ぎない。
集中力を高めて、妥協なきほど考え抜かれた研究と実践の過程から生まれるコンセプトやセオリーには、語り継がれる名演に相応しいものもあるかもしれない。
ソフィア・クレイドルでは、仕事というものをそのように定義している。
2006 年 06 月 09 日 : Standard
高校時代、書道の時間に、「不動心」という言葉を飽きることなく何枚も何枚も書いていた頃が懐かしい。
当時、この言葉に対する認識はいまと比較するべくもなく浅かった。
全くというほど分かっていなかったけど、記憶の中に残っているのが不思議ではあり、これが潜在意識というのだろうか。
会社を経営していると、不確実なものに対して、確かなる実感を抱いて意思決定するという局面が多々訪れる。
況して、ソフィア・クレイドルのように業界初という代物を世界マーケットに送り出そうものなら、そんな出来事の連続で、それを点と点に繋げてゆけば複雑に入り組んだ曲線にもなろうかというほどだ。
何事もなるべくしてなる、という天才がいるのは事実かもしれないけれど、そこには何かが潜んでいるような気がしてならない。
世界は意思決定し行動することによって変化してゆくものではないだろうか。
行動こそが変化の直接的要因であり、その元を辿れば、それは当事者である本人の意思決定の判断基準に帰着されることが容易に分かる。
意思決定のための判断基準とは、その人の人格そのもののと言えるかもしれない。
想い描くシナリオを実現できる人とできない人の差は何だろう。
これこそが重要なポイントである、と僕は考える。
真・善・美という、基本となる三軸を知って照らし合わせて、常にマキシマムな状態にあり、ブレはないかどうか。更に言えば、一点の曇りもないかどうか。
日頃から心掛けたいのは、そういった心の状態を不動のものにするということである。
2006 年 06 月 09 日 : IT 革命の予感
10 年ほど前から、「IT 革命」というキーワードをよく聞くようになった。
この言葉をどう受け止め、解釈するかは人それぞれであろう。
本当に革命的な出来事になるのかどうかは、何百年か先に待つ未来から現代を振り返るしか確実なことは言えないけれど、僕自身は滅多にないチャンスが到来したと感じている。
昔、英国を起点として産業革命が起こった。
それが世界へとひろがっていき、いろんな経路・道筋を経て、今日の文化・文明へと繋がった。
徒歩ならば時速 4 〜 5 km に過ぎないのに、新幹線に乗れば桁違いに速いスピードを獲得できる。
トラックが運転できれば、自分の体重の 50 倍以上の荷物も楽に運べる。
言ってみれば、産業革命によって、僕たちは肉体の物理的限界を大きく超えることできた。
その結果、必ずしも全てを肯定するわけでもないものの、快適な生活空間を獲得できた。
同列に扱うべきものかどうか議論は分かれると思うけれども、IT 革命も産業革命に匹敵する、或いはこれを凌駕するインパクトを持ちうるのではないかという仮説がこれからの未来で重要になりそうだ。
コンピューターやインターネットというものは、人の創造的な活動を支援し、知性、感性の限界を飛躍させてくれる存在だと思うからである。
単純な話ならば、数学的計算や情報検索など方法が定まった内容であれば、スピードとボリュームの観点から人の知的能力を格段に拡大してくれる。
思考のスピードを速める以外に、発想力や創造力も IT というものを駆使するスタイルで何倍、何十倍、・・・ と際限なく高まり、あたかも別次元の世界にいるかの如く、特殊な才能や能力を身にまとえるのかもしれない。
明確な予想図を絵に描くことは叶わないが、個人的には自分の全ての人生を捧げてもよいと思うほどコンピューターやインターネットというものに期待感を寄せている。
人の知的能力が 50倍、100倍、 ・・・ と増幅されることで、世界は如何なる空間へと移り変わってゆくのだろうか。
それに対する興味は尽きない。
最近は、そんな日々を過ごしている。
2006 年 06 月 07 日 : Objective of technology
ソフィア・クレイドルは研究開発型ベンチャーであり、現在はモバイルという分野におけるソフト技術で新しき何かを追い求めて事業を展開している。
だから「技術(テクノロジー)」という言葉にはとりわけ敏感である。
そもそも、「技術って何?」と真剣に問い掛ける人も珍しいくらいに有り触れた言葉なんだけれど、そんな問い掛けから、研究開発型ベンチャーはスタートすべきかもしれない。
一般には、"技術"とはモノやサービスを創り出す方法のことであり、その目的は人間を原始的な暮らしからより豊かな文化ある生活へと導くためのもののようだ。
技術があったから、生活も良き方向に変化したし、新たな技術の誕生がある限り、人々の生活の進化発展はきっと継続するだろう。
それくらいに技術は人類に大きな影響を及ぼしているのにもかかわらず、一般的には無頓着な捉え方しかなされていないようにも感じられる。
技術開発に携わる人たちの世界においてさえ、そういった傾向が見受けられるくらいである。
では、ソフィア・クレイドルの R & D で大切にしたい考え方は、その技術が如何にして人々の生活を革新し得るのだろうかという洞察である。
言い換えれば、この技術によって、人々がどれくらい素敵な景色を初めて眺めえるのだろうかという想像である。
2006 年 06 月 07 日 : No way to say
対象とすべきものが偉大なものであればあるほど、言葉での表現は難しいものである。
「言葉にならない・・・」は、日常生活で当たり前のように使える便利な言葉だ。
僕たちもそれくらい凄いものを創っているつもりなのだけれど、それを人々に伝える難しさ、もどかしさを痛感させられる。
「言葉にならないくらい凄いソフト技術なんです」と一言で済むならば、どんなにか事はスムーズに運ぶだろう。
しかし現実はそうではなく大抵の場合、僕たちの想いをお客様のアタマにリアルな映像として再現してもらう必要がある。
だんだんと分かって来たのは、説得力のある説明を目指すよりも、自分の感性をできる限りそのまま伝えるほうが良いということだ。
そこで問題になってくるのが、自分の内にある感性が如何ほどのものかという命題である。
これまで生きてきてなんとなく理解できたことがある。
感性というものは、人に備わった全ての感覚から吸収され、蓄積され、それがアウトプットに活かされるのではなかろうかという仮説である。
だから、常日頃から心掛けているのは、どんなものでも素晴らしい物に触れる機会を絶やさないことである。
2006 年 04 月 16 日 : Quite something
ベンチャー故に、絞り込んだ領域でソフトウェアに関する研究開発事業を営んでいる。
常に心掛けているのは "something" という雰囲気かもしれない。
何を意味するのかと言えば、さまざまな障壁を乗り越えて生まれた作品が、瞬間的に分かるようなものじゃつまらない・・・という発想である。
何か得体の知れぬもの。
世界を観察していると、ロングセラーと言われるものほどそんなオーラに満ちている。
誰にでも分かり易くプレゼンすべきなのかもしれないけど、"quite something"なものはきっと一筋縄ではいかないのだろう。
何故なら使う人の環境によって、それは生き物のように七変化するからだ。
そんなものがひとつでも創造できれば、心の充足感は計りしれないほどと思う。
だからこそベンチャーをする意義があるのかもしれない。