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Sophia Cradle IncorporatedPresident Blog : Vision

2005 年 07 月 21 日 : Universe

私たちが暮らしている「宇宙」は137億年前に生まれたらしい。どんな経緯をたどって今日の地球もその宇宙の中に現れたのだろう。見渡せば、人を始め犬、猫、鳥などたくさんの身近な動物、樹木や花や植物や昆虫とともに暮らしている。空気も水も土も無意識の中に存在している。

137億年という遥か彼方へと伸びる過去をたどれば、実に様々な環境変化があったことは想像に難くない。そういった紆余曲折を経て、今日の私たちの世界がある。そんな永遠に等しい時間の流れに思いを馳せれば、人にしてもその存在そのものに貴い念を抱かざるを得ない。だからこそ、存在するということに対して、その歴史の過程における様々な環境変化とそれに対応する術から示唆が得られるような気がする。私たち人間が、これまで永き宇宙の歴史の潮流の中にあって生き延びてこれた自然の摂理は何であろうかと。

企業というものを一種の生き物のようなものと捉えるのならば、企業についても様々な環境変化に耐え忍んで長き生命を持つには、どのような術がいるのだろう。映画『2001年宇宙の旅』を観たりアシモフの"ロボットと帝国"シリーズなどの古典を読み返して、しばしそんな悠久で広大な世界に思いを馳せていた。

勢いのある経営者ほどあたかも無限大の成長曲線がそこに存在するかのように、拡大路線を直走る傾向にあるのが大勢ともいえる。どんな組織でも崩壊というものは、その組織の性質に即した境界線を超えようとする段階から逆に衰退への道を加速度を増して歩むことになるのだろう。ある日訪れる環境変化によってその事実が断層のように突然露呈される。

永遠の存続を望むなら、企業が堅持すべき真に大切なものとは、水の如くに流れる軌跡や姿を変え規模を変化させて進む柔軟性の中に発見できるのかもしれない。そこで経営者に問われるのは、そういった企業の姿を果てしなく続く未来も含めロングレンジに彩を添えて鮮明にイメージできるセンスであるかのように思えてくる。

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2005 年 07 月 18 日 : Image

経営者ならば「企業とは何か」について考えることも多いのではないだろうか。それへの想いや思考を廻らせることによって、なんとなく漠然としたや企業や経営がある種のイメージとして形を帯びてくるだろう。今日は「企業の目的」というものから自論や想像を展開してみよう。

単純な発想からすれば、企業は利潤を追求するために存在すると考えられるかもしれない。多くの人がそう考えるように思う。しかし企業というものが法人という、一種の生き物のような「人」という存在であることを意識した瞬間に、一番大切なのは「利潤を得ること」ではなく、「企業の存在そのもの」あるいは「永遠に渡る企業の存続」が最も大切であることが明らかになってくる。

シンプルな考え方をするのならば、例えば、100億円と引き換えに敢えて自分の命を好き好んで差し出すような人は滅多にいないだろう。"命"というものはそれだけ貴い存在であり、企業の生命もまた然りである。また、生命にも身体的物質的なものと、心や企業理念など精神的なものがある。

もちろん「利潤を得ること」は大切ではあるが、それは企業の目的からすれば筆頭に位置づけられるものではなく、P.F.ドラッカー氏もいうように「企業が存続するための条件」のようなものである。利潤は未来世界におけるその企業発展の基礎となるからだ。

それでは「企業の存続」とはどういうことを意味するのだろうか?これは単純なように見えて、とても貴重な問いかけである。

全く何もない"無"から企業を立ち上げれば、創業期ほど痛感するある事実がある。それは社会から必要とされるものしか、人々はその企業の商品やサービスを選択しないということである。この社会から必要とされるものを新たに創造し、社会に受け入れてもらうことことは、簡単なように思えて非常に難しい創業の難関である。

企業は商品やサービスを社会に提供する存在である。だから過去から現代まで永年に渡り生き続けるものの中にある種のヒントが隠されているのではないか。

音楽でいえば、何故、モーツアルト、バッハ、ベートーベン、ショパン、etc の名曲は、現代の世にあっても多くの人々から親しまれているのだろろうか。その時代、彼ら以外に数え切れないほどたくさんの音楽家がいて楽曲や歌があったのに。それは、流行の中に普遍性を持っていて、形象を超えた本質の中に時代や時間という一種の壁を乗り越えれるだけのクオリティの高さを持っていたからではないだろうか。

中国の古典でいえば、「老子」「荘子」「孫子」「史記」など幾つかの名著は、今だ世界中のひろく多くの人々に読みつがれてきている。様々な事象に応用が利く、永遠の真理というものがこれからの書物に見出せるからだろう。

そんな長い歳月を経ても存続し続けている名作の中に、企業が永遠の生命を保つヒントが隠されている。

そういう名作に共通しているのは、何処にも欠陥を見出せず、パーフェクトなデザインでありインプリメントであること、そしてその価値を単純には金額に換算できないことである。

企業の価値は、そのアウトプットである商品やサービスで判断される。だからこそ、その商品やサービスに関して徹頭徹尾に渡って完全性を期す、というのはその永遠の存続のためには絶対に外せない条件だと思う。ソフトウエアの場合、ユーザーがいるので出来る限りの完璧さを目指す努力をすべきだろう。今もオフィスでは製品の安全性、完全性を期して大量のメールが飛び交っている。

それから、株価が上昇する局面においてよく時価総額経営など、株価重視の経営が声高に叫ばれたりする。だが、何百年、何千年にも渡って生き続ける作品には単純に金額的な値打ちで量れないほどの何かがある。そんな商品やサービスを提供できるかが、「永遠の企業の存続」に向けた一つの大きな試練である。

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2005 年 07 月 13 日 : 一瞬の輝き

ソフィア・クレイドルのビジネスモデルの原点は、どこにでも見かける極々ありふれた自動販売機にある。単純化して謂うのならば、自動販売機をインターネット上にプログラミングしようと試みている。

喉が渇けば、適当な自販機を見つけ、その中から自分の気に入った清涼飲料水を購入して飲む。電気代はかかるが、置き場所とその自販機に入れるラインナップを間違わなければ、自販機は365日24時間年中無休で忠実に働いてくれる。

物理的な質量を持つ製品の場合、その自販機に詰める手間、それからスケールアップする際、多くの自販機をいろんな場所に設置する地理的な手間と費用が最大のボトルネックである。

ソフトウェア製品のように、ネットを介して光速のスピードで瞬間的に移動できる性質のものは、そんな物理的、地理的な制約が一切ない。ビジネスモデル次第では、時間と距離の壁を越えて瞬間的に飛躍できる可能性が秘められている。

そんな魅力的なマーケットであれば、誰もがきっと参入したくなると思う。それはミュージシャンとかプロアスリート、作家など、アーティストと呼ばれる世界に近い。多くの人が出来ればそんな道に挑戦したいと思ったことがあるだろう。勿論、競争は極めて激しく、筋書き通りに事が運ぶ世界でもないが、最終的には熱意と才能や素質、考え方というものに左右されてしまうのではないだろうか。

インターネットの世界では、極端に言ってしまえばワンクリックという一瞬の出来事で判断が完成されると考えるべきなのかもしれない。しかしそれに至る根源は、人間に生まれながらにして備わっている本能や鋭敏な感性といったものに辿り着くような気がする。ある曲を聴いた瞬間、「これっていい曲だね!」と思うような感覚だ。

現代のネットビジネスは、そんな方向に進んでいるような気がする。ソフィア・クレイドルの製品をプレゼンしているサーバーは、物理的に京都という地にある訳だが、世界中のインターネットに接続された端末から閲覧可能である。それらの数え切れない無数の端末に向けて、どのようにして情報を発信し、ソフィア・クレイドルの製品やサービスが受容され、そのクオリティや機能性を満足してもらえるか――に全てがかかっている。

その勝敗の行方は、たったワンクリックの出来事で決まる場合も多い。その貴重な瞬間、瞬間にかける思いの永続こそが、偉大な新しきビジネスの創造に結びつくように実感する。

  

2005 年 07 月 03 日 : 時間の矢

大学で物理を学んでいた頃、その方程式は時間と空間の座標軸上で記述されていたのを覚えている。ベンチャーの社長として日常生活を過ごしていると、未来はどんな方向に歩を進めているのだろうかと考える習慣がついてしまう。具体的に数理物理学における難解な方程式を解くわけではないのだが、頭の中であたかもそれを解析しているかの如くである。

空間には前後左右上下があり、人や物はその中を如何様にも移動することができる。しかし時間というものは、遥か彼方の過去から現在を通過してどこか定められたある未来に向かって高速に進んでいる。物理学について勉強していると、そんな時間の性格を、「時間の矢」と呼んでいるらしいことが分かった。

時間の矢」とはどこを目指して進んでいるのだろうか?

物理学の世界で、この質問に対する正しい見解は得られていないのであるが、「時間がどこに向かって進んでいるのか?」という問い掛けをすることに新鮮さを感じた。普通の人は、10年後の未来はこうなっているだろうという風な時間の捉え方をする。しかし物理学では「時間はどこに向かって進むのか?」というような逆転の発想をしている。

水は高きから低きに向かって流れそれから循環する。時間というものも、水と同じようにある一定の方向に進んでいるという考え方もできる。

このアプローチは必ず実現する事業計画策定のためのヒントになりそうだ。事業計画の記載されている内容が「時間の矢」の進む方向に沿ったものであるかを見極めるのが重要なのかもしれない。

  

2005 年 06 月 27 日 : 大成は欠けたるが若きも其の用は…

老子の第45章は次のような文章で始まる。

大成は欠けたるが若きも、其の用は弊せず。大盈は沖しきが若きも、其の用窮らず。…

これは、最も完全なものはどこか欠けているように見えるが、それを使っても決して破損することはない。また、最も充実しているものは空虚なように見えるが、それを使っても尽きることはないという意味である。

日常生活において、富士山を見てその壮大さは感じ取れるけれども、私たちが暮らしている地球や宇宙の時間と広さのスケールは全く実感できない、あの感覚に近いのかもしれない。真に偉大なものは平凡な人間の理解を超越する。

この世の中、誰にでも直ぐに分かって簡単であるが故に良く売れているものは存在するが、大抵の場合そういったものほどその寿命が短いのも事実だ。「老子」にもあるように、真に永遠の如く偉大なものはそう容易くは発見できない場所に隠されている。地球や宇宙の歴史は何十億年以上にも渡っているように、偉大なものほどそのライフサイクルのスパンは長い。

創業当初よく考えたのは、ソフィア・クレイドルという会社を、時間軸と空間軸で構成される世界観の中でどれくらいの壮大さで事業を育てるかと謂うことであった。しかし、それが大きければ大きいほど、その基盤がかたち創られ、具体的な成果が現れるまでより多くの時間がかかる。会社が成長していると認識できるまではただ辛抱するしかないのだが、それに対してどれくらい耐えられるかが試されるであろう。

壮大な目標であればあるほど、その途中で自分の立ち居地が分からなくて苦しさを感じることもある。そのとき、どうやって踏ん張れるかが全て。42.195キロを駆けるマラソンレースの場合、先頭集団から途中脱落して逆転優勝するようなランナーは滅多にいない。最後の最後までゴールは見えないけれども、それが確かに存在することを信じて、脱落することなく調整しつつトップスピードで駆け抜けることが大切なんだと思う。

  

2005 年 06 月 24 日 : アイデアが煌く瞬間

一日の大半の時を読書やインターネットに費やす。本やインターネットに現れる文章やデザインを眺めながら意識して考えるように努めている。重要な情報ほど行間に埋もれている。それが発見できるかどうか。

何千年もの時を経て現存する、中国の古典はその典型的な例で、一文字一文字に籠められた意味もさることながらその行間に隠された情報量は計り知れない。漢字は象形文字が起源だから、「老子」などの書物では文字の形にも意味があるという。学生の頃は、文章の意味を味わう事もなく、只管、大学受験のためだけに勉強していた。あの頃もっと勉強しておけばと思うこともしばしば。後悔先に立たず、それを実感する。

しかしこれからの先も長い。日々勉学に励んでいる。まだまだ未熟で学ぶべきことが多すぎるように感じる。学生の頃よりも10倍は勉強しているように思う。皮肉なことに、学生の頃、等閑だった国語、社会、芸術といった科目の内容の勉強をよくしている。そういった学問の中からいろんな発想が思い浮かぶことが多い。それは人間というものに関わる内容だからだろうか。

乱読と精読を折り交えて、さまざまな先人の智慧や叡智に学ぶ努力をしているのだが、実際に仕事に役立つアイデアってどんなタイミングで生まれるのだろうかとふと思った。

これまでを振り返ると、良いアイデアというのは人と話をしている瞬間に鮮やかな色彩でインスピレーションとして描かれるような気がする。頭の中に蓄積されている知識の断片が、話相手の発するキーワードという触媒によって瞬間的に或るかたちに形成される。その瞬間を逃さないというのが大切で、その前提としての知識を何層もインプットするというのも欠かせないだろう。

複雑にいろんな条件が重なった時に、偉大なイノベーションは生まれるのだろうけれども、それがより現実味を帯びてくるのはどういう時なのか?たまにはそんなことを思い巡らせるのも楽しい。

  

2005 年 06 月 20 日 : 備えあれば憂いなし

備えあれば憂いなし』という格言がある。この言葉は、ほとんどの人が未来の展望についてその準備を怠っているという皮肉な現実を物語っているのであろうか。それ故に、未来に備えることが、自分たちが簡単に先んじてマーケットで競争優位に立てる一つの方法かもしれない。

2005年6月14日発行の日経産業新聞24面に、組込みソフト業界の未来を占う貴重なデータが掲載されていた。正確な数字は読み取れないのだが、その棒グラフを目分量で測れば、携帯電話のソフト開発規模が1999年度と2004年度とで比較すると、大体100倍もの開きがあることが見て取れる。電子マネー、テレビ電話、動画対応、カメラ搭載など近年の携帯電話多機能化によるものである。ソフトは人にしか創れない。開発規模が大きくなれば、それに比例して開発コストは増大する。

翻って考えてみると、キャリア(携帯電話通信事業者)からの報奨金制度もあり正確には分からないが、携帯電話の価格は100倍も高くなっていない。少し高くなったかな、といった程度であろう。NEC、京セラ、三菱、富士通など、携帯電話は売れているにも関わらず軒並み赤字で苦戦が続いている。その他の国内の携帯電話端末メーカーも売れているのに概ねその経営は苦しい。抜本的な対策が望まれる。今年の後半からは国際的に価格競争力のある、サムスン、LGといった韓国の携帯電話も国内マーケットに参入してくる。

最終利用者に喜んで支持される機能が必要十分なだけあって、しかもクオリティの高い携帯電話をどうやって費用をかけずに開発できるか?それが携帯電話端末メーカーにとって、生き残りを賭けた勝負を決定付ける最大のキーになるだろう。現在の携帯電話端末ビジネスのボトルネックは、止まることを知らない組み込みソフトの開発規模増大である。

その解決策は、携帯電話のOS(オペレーティングシステム)をオープン化すること。そしてその上で動作する様々なアプリケーションを携帯電話端末メーカーが開発するのではなく、アプリケーションノウハウを持つ第3者のソフト開発・販売会社或いは個人に委ねるスキームを創るのが得策だと思う。恐らく今年の後半あたりからその流れが加速するように思えてならない。

会社を創業した2002年2月22日以来、時代は必ずその方向に移り変わると信じて、短期的な儲けは度外視し長期的な成長を大切にして、ソフトウェア研究開発事業を推し進めてきた。一応、創業以来ずっと黒字決算だけは死守しているが…。

ソフィア・クレイドルの製品の典型的な特長として挙げられるのが、プログラムのコンポーネント化である。ソフトを開発するにも、自動車を作るときに鉄やガラス、プラスティックなど様々な素材や部品で作るように、いろんな部品(モジュール)が必要である。コンポーネント化のコンセプトを具現化するに当たって意識したことは、『世界中の携帯電話に共通して利用可能な汎用的な部品(ソフトウェアモジュール)とは何か?』を常に洞察しようと努めたことである。思い描いたイメージを『3年以上もの時』をかけてじっくりとプログラミングしてきた。

最近になって、世界中のお客さまから製品への引き合いが急増している。特に海外からの問い合わせが多い。現在、頑張って全ての製品の海外対応をしている。今年末には全製品の英訳は完了する見通しでいる。海外ビジネスの方法に不慣れな点は事実だ。それはやっているうちに徐々に解消される問題と楽観的に構えている。

単なる予感に過ぎないかもしれない。ターゲットとするプラットフォーム(BREW)の世界的な普及の伸びは著しい。さらにNTTドコモも今秋からそのプラットフォームを採用するのを勘案すれば、来期は今期の10倍程度の成長が叶いそうだ。スタッフの増員は若干名しか計画していない。今からそれに備えて業務プロセスを効率化し、受注処理や出荷処理のコンピューター化に着手しようと考えている。

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