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Sophia Cradle IncorporatedPresident Blog : Vision

2005 年 05 月 11 日 : Core concept -12-

米国マイクロソフト社沿革を見ればいくつかの事実が発見できる。一つは1975年から1979年までマイクロソフトの本社がニューメキシコ州アルバカーキにあったこと。もう一つ、現在の本社はシリコンバレーではなく、ワシントン州シアトル郊外の、環境の良いレドモントにあるということ。

私を含め、土地勘の無い大抵の日本人だとピンとこないかもしれない。ニューメキシコ州アルバカーキという街は砂漠のど真ん中にあるらしい。創業の頃、ビル・ゲイツが在籍していたハーバード大学の所在地、マサチューセッツ州ケンブリッジからも、故郷であるワシントン州シアトルからも何千キロも離れている。何故そんなところに本社を構えざるを得なかったのか?そしていま何故ワシントン州レドモントにその本拠地があるのか?私はその点に興味を持ってマイクロソフトの沿革を眺めた。

マイクロソフトの原点である、BASICインタプリッタのプラットフォームはMITS社のアルテア8800であった。そのMITS社の本社がニューメキシコ州アルバカーキにあった。それが、創業以来4年間にわたってマイクロソフトの本社がそこにある所以らしい。常識で考えれば、誰しも好き好んでそんな場所に本社を置かないと思う。ビジネス上の都合からそうしていたわけだろう。そういうことから察すれば、1975年から1979年の4年間、いまを時めくマイクロソフトも今は亡きMITS社のソフトウェア開発子会社的な位置付けに過ぎなかった。決して華々しくデビューしたわけではなかった。

では何故マイクロソフト社はMITS社と運命を共にすることなく、IT業界の巨人として飛び立ってゆくことができたのであろうか?

その根本的な原因はソフトウェアライセンスビジネスという構想をいち早く具体化し実践していた点にあると考えられる。マイクロソフトはアルテア8800用BASICインタプリッタの知的所有権をMITS社に売り渡さずに使用許諾を与えるという契約を締結した。そのソフトウェアを売り払ってしまえばまとまったお金も入る。近視眼的な人間であれば迷わずそうするところであっただろう。しかし、ビル・ゲイツは敢えてその選択をしなかった。

そんな意思決定ができるか否かがマイクロソフトとMITSの明暗を分けたのかもしれない。

私たちのようなソフトウェア開発会社の場合、お客さまの依頼に応じてソフトウェアを開発し、それを納入することでまとまったお金を一気に確実に得るという手段を採ることもできる。そうすれば短期的には売上を大きく伸ばし、社員数を増やすことも簡単にできる。しかし、お客さまに収めたソフトウェア資産はお客さまに所有権があり、自分たちにはそれがない。だから、過去の資産をストックし、それを積み上げるようにしてマイクロソフトのように飛躍できない。

ソフトウェアのライセンスビジネスで特徴的なのは最初の一本目のソフトウェアを開発し販売するまでには膨大な人と時間が必要とされる。けれども、2本目以降については一瞬のうちのそのコピーが創れてしまう。インターネットが発達した今日であれば、ネット経由で世界中にそのソフトウェアのコピーを無制限に何本でも光速のスピードで瞬間的に販売できる。

客観的に見れば、売れるのか売れないのか分からない。そして形すら見えないソフトウェア製品の研究開発に自己資金でもある資本金の大半を投入するのには勇気のいることではないだろうか。しかし勝算が見込めるのならば、そして自分のやりたいことが実現できるのであれば、それにチャレンジする見返りは充分にある。

マイクロソフト社の例を見れば分かるように、ソフトウェアライセンスビジネスの立ち上がりは極めて緩やかだ。しかし、その分時間軸の幅も広く、それが世界中で利用されるものであれば、その高さも天にも届く勢いを保つことだろう。マイクロソフトはその潮流に乗ることができた。そしていまはシリコンバレーとは一定の距離を保つようにワシントン州レドモントに本拠地としている。

確かにシリコンバレーには優秀な技術者が集まり、有望なIT企業も多いかもしれない。しかし集積も限度を超えると弊害も及んでくる。一つは従業員の定着であり、もう一つは住居などの生活環境である。栄枯盛衰の激しいIT業界では、いろんな有望なベンチャーが突然登場し、そしていつの間にか消え去る。シリコンバレーではそんな景色が至るところで見ることができるという。それ故に優秀な技術者の企業への定着率も悪く、生活の物価も他の地域と比べ極端に高い。昨日の日経新聞(2005年5月10日朝刊)に掲載されていた記事からだが、「ムーアの法則」で著名なゴートン・ムーアによれば、有能な技術者のシリコンバレー離れは既に始まっているという。

マイクロソフトの事例からは以上のような背景を学び、ソフィア・クレイドルはソフトウエア製品開発型ベンチャーとし、本拠地は首都圏から離れた京都という地において創業することにした。過去のソフトウェア資産をストックしそれを梃子にして飛躍するアプローチ。それから、ITベンチャーの少ない京都という地だからこそ逆に、輝かしき未来ある前途有望な人材がソフィア・クレイドルという「」に集積すると考えた。

(つづく)

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2005 年 04 月 12 日 : 千里眼

最近、海外とコミュニケートする機会が頻繁にあり、和英辞典が欠かせない。たまたま和英辞典を開いて「先見力」について調べてみた。すると、そこには"vision"や"foresight"といった英単語が並んでいた。"The governor is a man of vision."(その知事は先見の明のある人だ。)という例文があったりする。 

ベンチャーを経営していると、以前と比較して"vision"というキーワードを聴く機会が殊更多い。時代の先にあるものを洞察する「先見力」はベンチャー起業家にとって貴重な資質であるという暗黙の了解があるかの如く。

いろんな要素が複雑に絡み合うので、一概にこれと断言することはできない。しかし、「先見力」はベンチャーを成功へと誘う一つの大切な要因であることは確かだろう。

和英辞典のその先にある情報を眺めていると、「先見の明がある」は英語で"have a long head"というらしい。日本語に直訳すれば「長い頭を持っている」ということか。「ものごとを長期的に判断できる」と解釈すれば良いのだろうか。こんなところに英語に対する知的好奇心が刺激される。

"have a long head"という英熟語には「頭が良い」という味も含まれているらしい。英語圏では「先見の明」こそが賢者の証かもしれない。文化的な背景の違いを想像するのはとても興味深い。

日本では、一般に「頭が良い」というのは「学業の成績が優れている」というような意味で捉えられることが多いように思う。だから有名な学校を卒業すると、その人は「頭が良い」と同義であるのがこの日本の一般的な風景の一コマに見える。

学生時代を振り返れば、残念ながら「先見力」と呼ばれる才能を伸ばす訓練を受ける機会にほとんど巡り会えなかった。過去の知識を詰め込み式に丸暗記し、予め答えが一つ決まっているものと同じ解答をするだけでよい。その正解率によって学生は評価される。そんな教育を受けてきた。「先見力」については自分なりに努めてそういった才能を磨くしかなかった。

確かに過去の事実を知ることは大切なことだ。しかし、時代の流れや勢いのようなものから、不確定要素が多く何通りにも答えがあり得る、未知の世界を推論する。そういった能力の方が社会に出てからは実用的で実際には役立つものだ。過去を振り返るだけでなく、そこから無限の可能性を秘めた未来を見渡せる才能がいま求められている。

ベンチャーを経営して尚更それを実感する。実際問題として、「頭が良い」といわれる人たちを100人集めたとしても、その中で「先見の明」のある人は1人いるかいなかくらいだろう。日本の教育のシステム上、そういった努力をしてこなかったから仕方がないといえばそれまでなのだが…。実はそんなところにニッチを見出してベンチャーを創める意義がある。

過去と未来の世界は、いま現在というポイントを経て確かに一つの道として繋がっている。その事実を時空のひろがりの中で連続的に俯瞰できる才能が先見力だ。それさえあれば不安に思うことなく明るい未来を展望することができる。さもなければサイコロを振るようにして不確定に生きるしかない。だから所謂「頭が良い」といわれる人の大半が確率論に従った人生を送らざるを得ない現実がなんとも皮肉に虚しく響く。

創業当初、人材や資金、設備などで恵まれなくとも、他の人には見えない未来への構想力と決断力こそがベンチャーにとって掛け替えの無い財産となる。経営学的にはそれが競争優位の源泉となる。弛まなく無限の成長を遂げるベンチャーの成功の秘訣は千里眼のような「先見の明」にありそうだ。

  

2005 年 04 月 10 日 : 予兆

「地層が地殻の割れ目に沿ってずれて食い違う現象」のことを「断層」と呼んでいる。辞書にはもうひとつの意味として、「環境の相違による考え方の食い違い」とも記されている。断層というのは地震によって引き起こされる。ある日突然、地震は襲ってくる。時にそれは為す術がない大自然の脅威や怒りに思えてしまうこともある。とにかくその瞬間、人は本能的にエピステーメー状態になってしまう。

地球上のあらゆる生命には、本能で悟って地殻変動を予知し、難を逃れたりする才能が、本来備わっているらしい。大きな自然災害の後に動物たちのそういった行動を報道で知ると、生命の神秘さに愕然とする。科学的には、地震発生の前後にはその辺りの磁場が変化し、何らかの電気的なイオンらしきものが観測できるという。動物はそれを本能で感知するのであろうか。(太古の昔、人間にもそんな能力はあったに違いない。だとすれば、それを喪失してしまった原因は…?)

世の中の移ろいゆく無常な風景もそれに等しい。歴史には変曲点のようなポイントが確かに存在し、人類は過去さまざまな変革を経験した。第二次世界大戦、明治維新、関が原など、挙げれば切りがないほどそんな断層を経て私たちの今日の姿があるのだ。

断層を境界線として世界の構造が天と地ほどに激変する。人びとの生活や社会のあり方、そして個人の生きる術も、過去に当たり前のように通用していたルールやシステムは全く意味をなさなくなる。人は水中で暮らせないが魚は何の問題もなく生きていける。地上と水中では生存するためのパラダイムが異なるのだ。時代を振り返れば、それに似たようなパラダイムシフトが時折訪れ、その度に人々の生活が変化したことが分かる。

新時代にはそれに相応しい、今までとは異なる仕組みやシステムが要請される。それまで既得権益にあぐらをかいてきた人びとにとっては都合の悪い話なのだが、それ以外の人たちにとってはまさに絶好の機会でもある。これまでエリートコースと持て囃された、一流大学、一流企業などでの過ぎ去りし日の輝かしき経歴なんていうのも文字通り単にそれだけのこと。これからの時代、きっとその人自身の未来へと繋がるポテンシャルだけが信じれる拠り所となるだろう。そんな予感がする。

地震と同じで何の備えもなければ震災に飲み込まれる可能性が高いと思う。何かが起ころうとしている前触れのような予兆を敏感に感じ取って、未来に備えることが大切な習慣になるのではないだろうか。ベンチャー起業家であれば、そういった微弱な変化を捉える能力を研ぎ澄まさなければ、と思う。

最近、過去の時代を飾った巨大組織が次々と崩壊している。そして偉大と称された、去りゆく今は昔のカリスマたち。時代の流れは大組織よりも機動性のあるチームに味方しているにも感じ取れる。ヤンキースではなく、松井。マリナーズではなく、イチロー。人びとは何よりもユニークさで際立った個人やグループの直向さや活躍に、期待を寄せ注目しその推移を見守っているかのようだ。

精神的な一体感がチームのパフォーマンスをマキシマイズしてくれる。21世紀はそんな時代だと感じている。たったひとつのある才能の開花によって世界が良い方向に化学反応しそうな、そんな夢と希望を抱いている。だからこそ、巨大な組織や権威に迎合せず、正しく自分を主張するポリシーを貫きたい。しかしそれは、間違った信念や固定された観念を守るのではない。自らも学び変化しつつ、長く優しい眼差しを持ったり他者の考えの違いも受け入れることができたら。まさに新しい世界に向けて自ら脱皮できる柔らかさやしなやかさを養いたいと願っている。チームが小さければ小さいほど、それは成し遂げやすいだろう。

いま時代は曲がり角に差し掛かっている。そして一歩一歩着実に変わりつつある。それだけは確かだ。

  

2005 年 04 月 09 日 : On-demand software

サーフィンといえば、携帯電話でも波情報というものが有料コンテンツとしてネット配信されている。それくらい波の情報は大切で、それによってサーフィンの楽しみが倍増されるようだ。同じように、ベンチャービジネスを成功裡に運ぶには、時代の潮流とかトレンドには常に敏感であるべきであろう。時代の波に乗るというのはとても重要なことだ。そんな能力やスキル、才能は企業規模を問わず、すべての人に平等に与えられているのだから。創めの頃、弱小だったベンチャーがいつしか急成長し、それまで安泰だった大企業をも脅かす存在になる源泉はきっとそんなところにあるに違いない。

未来を予測する上で大事なのことが一つだけある。それは時代が向かっている行方を過去から未来へと流れる潮のようなものから自らの感性で掴み取って、心眼で素直にじっと眺める姿勢であろう。偉大であれば偉大であるほどに長い時間的なスパンでものごとの本質をよく見極め確かめて、事業全体を構想し、グランドデザインすることが肝要だ。ソフィア・クレイドルでは短期的な成長よりも寧ろ永遠の世界の中で進歩発展することに願いを込めて事業が運営されている。だから、この先、10年後、30年後、50年後、世の中がどうなっていくのだろうか?というような問い掛けを何よりも貴重な財産にしている。

そのために心掛けているは、時空の中にひろがる場或いは世界においてものごとの成長曲線を点対称に描くという発想法だ。次のように未来の世界を想像し、ベンチャービジネスを育てている。これから50年後の世界を知ろうとするならば、過去50年間の歴史を具に振り返って、現在を原点に位置づけて点対称な曲線を未来の時間軸に沿って延長するというようなイメージし、ものごとのエッセンスを探ろうとしている。

この先の未来、ソフトウェアビジネスは一体全体どのような道を辿りゆくのだろうか?

数年前、ASP(ApplicationServiceProvider)などのキーワードがコンピューター関連雑誌の紙面を賑わせた。今日、これと似たようなコンセプトが「オンディマンドコンピューティング(On-Demand Computing)」というような、なんとなく洗練されたキーワードで呼ばれたりしている。簡単にいってしまえば、将来、ソフトウェアというものも電力やガス、電話と同じように使った分だけ利用者がその代金を支払うことになるだろうというコンピューティングスタイルの新しい見方である。

これを視座を変えて洞察することで新たなベンチャービジネスを構想することができる。実際、私たちはその流れに沿って事業を計画し実行している。

その発想の原点は過去から現在、未来へと時代がどのように移ろい変わりゆくのかというのを歴史的な視点からものごとを見つめるというところにある。

コンピューターが発明されて半世紀以上が経過する。最初はソフトウェアというものは存在せず、ハードウェアによってプログラミングがなされていた。50年ほど前に、フォン・ノイマン(?)の発案により、今日のようにプログラムを記憶装置に保存し、それを自由自在に変更できるかたちのものとして「ソフトウェア」が初めて世に姿を現した。

暫くして1960年代にIBM System/360という一時代を築き上げることになる汎用計算機が登場した。その頃のソフトウェアといえば、コンピューターのハードウェアを買えば自動的に付いてくるオマケみたいなものに過ぎなかった。ソフトウェアだけではビジネスは成立しえなかった。20年以上の時を経て、ようやくラリー・エリソンの率いる米国オラクル社がデータベースというソフトウェアパッケージで初めて大々的にビジネスとして成功できた。

そのビジネスのポテンシャルは今日の米国マイクロソフト社に代表されるパソコン向けソフトウェアパッケージビジネスと比較すればその規模は遥かに小さかった。ソフトウェアのビジネスがパッケージ販売として本格化したのはパソコンというプラットフォームがあったお陰だ。パソコンはそんなビジネスモデルには最適な存在だった。

21世紀に入り、多種多様な情報機器がインターネットに接続され、しかもそれらの機器は使い捨ての要素が強く、しかも携帯電話のようにその用途もダイナミックに変化するものも多くなるだろう。そうなってくると、ソフトウェアも使った分だけ代金を支払うというのが当然のあるべき姿のようにも思われる。今は、「オンディマンドコンピューティング(On-Demand Computing)」の時代が幕開けする前夜に私たちはいるのかもしれない。

ソフトウェアパッケージビジネスが汎用計算機ではなく、パソコンで華々しく開花したように、新しいオンディマンドなソフトウェアビジネスはパソコンよりも寧ろ携帯電話のような次世代を担う新しいプラットフォームで展開されるだろう、と私たちは時代の流れからそれを読み取って事業を構想し計画し展開している。

このような時代の背景を意識的に捉えた上で、どのような新しいソフトウェアビジネスを展開すれば良いのかをしっかりと見極めることが肝心要なポイントだ。ソフトウェアが電力やガス、電話のようなものと同じ位置づけになるとすれば何が重要になってくるのだろうか?そんなところから、新しいベンチャーは創まる。

電力やガス、電話に共通する特徴として、どこでもいつでも安定的に使えること、いろんな用途に利用されることなどを挙げることができるだろう。例えば、電力の場合、テレビ、洗濯機、掃除機、ポット、蛍光灯など実にさまざまな用途に利用される。しかも、停電することもなければ、電力の供給が不安定になることもない。次世代のソフトウェアにはそんな要素が求められると私たちは考えて、過去に存在し得なかった新しいアーキテクチャを持つソフトウェアを創っている。

そのようなオンディマンドなサービスに最も求められるものは、品質の高さと汎用性を兼ね備えたものを利用者に継続して安定的に供給することであろう。品質と汎用性こそがすべてといっても良い。電力、ガス、電話と同じように、インフラストラクチャーが磐石なロジスティックスを提供できるところのみがこの種のビジネスを独占することになるだろう。そういう事情があるので、オンディマンドなソフトウェアビジネスでは品質と汎用性こそが最高の営業力になるというのも一つの考え方だと直感的に思っている。裏を返せば、用途に合わせて如何様にも使える、変幻自在でクオリティの高い、新世代のソフトウェアは営業や宣伝、広告をせずともオートマティックに売れるということだ。

  

2005 年 03 月 29 日 : 元素周期律表

高校生の頃、化学の授業で、かの有名なメンデレーエフの「元素周期律表」を暗唱していたのが今では違う世界のことのように思い出される。

地球上には百花繚乱のいろんな生物や物体が存在している。古代ギリシャの哲学者アリストテレスの発想から始まったらしいけど、原子レベルまで突き詰めると、人工的に生成されたものも含め僅か117種類の元素しかないということだ。しかもシンプルな規則性のあるテーブルとして表現できる。まさに驚きである。

実は世の中は、意外とシンプルな原理原則で構成されているのではないかと信じたくなりそうだ。実際、そう考えて事業展開を目論んでいる。

携帯電話向けソフトウェアの研究開発をしている。年を追うごとに新たなテクノロジーや斬新な企画が生まれ、ソフトウェアは大規模になり複雑化している。世界の人びとから期待を一心に集める、携帯電話向けソフトウェアの世界で、複雑系の問題に対してどう対処できるかがこれからの最重要課題だ。

メンデレーエフの元素周期律表のような考え方で、携帯電話向けソフトウェアを構成する元素のような基本的な要素とその組み合わせ(フレームワーク)に再構成することで、携帯電話向けソフトウェアの複雑系の問題に取り組んでいる。

元素周期律表の中にも、この規則から人工的に創り出された元素がある。私たちはすべての基本構成要素を自ら創造しなければならない。メンデレーエフの元素周期律表のような美しき規則を発見したい。

携帯電話向けソフトウェアの元素に相当するようなものを見出し、人びとに喜ばれる、多種多様なソリューションの創造に貢献できればと願っている。

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2005 年 03 月 27 日 : 経験分布関数

人や製品、事業など成長しうるあらゆるものにいえる事実だから、数学的にも研究されているのだろうか。経験分布関数(Empirical Cumulative Distribution Function)というものの性質を知るのはベンチャー経営でとても大切だ。 

ベンチャーでは成長こそがすべてといえるほど、ワクワク&ドキドキ感をもたらしてくれる源だ。それではその成長とはどんな風にして姿を現すのだろうか?

それは敢えて数値的に表そうとするならば、連続的な曲線ではなく、今日の日記の画像にあるように階段状の軌跡を描いてゆくように思われる。ベンチャーとは、全くのゼロからスタートし、それが徐々に大きなものへとステップアップしながら段階的に成長していく過程といえる。

最初はベンチャーのビジョンや目的や目標の達成に向けて、そのプロジェクトに関わるスタッフたちの全知全能を結集しいろんな試みをする。しかし、現実は長いゼロの状態が暫く続く。ゼロというのはゼロであり、それは天と地、有と無、生と死ほどにも段階的に異なっている。それから、あることをきっかけにしてゼロからプラスの状態に1段階ステップアップしていることに気付く。その後、また暫くは平行線を彷徨いながら、それでも前向きな努力していると、最初と同じようにしてあることをきっかけにステップアップし次の第2段階へと進むことができる。

ベンチャーでの成長とは、こんなスタイルで何度も何度も繰り返されてゆく過程なのだろう。さまざまな創意工夫や努力をしていても、その結果が直ぐには現れないところが一番難しいところであり、この過程を理解していないがために、途中で諦めてしまう人が多いのではなかろうか。また、自分の持っている知識や理解は意外とモジュール化されているので、自分たちがどの段階にあるかはなかなか分からないし、誤解も生じたりする。そもそも向かう方向が違う場合もある。

階段状にステップアップしつつ成長するためには、まずは、自分の得意な範囲から、広く前向きなビジョンや目的や目標に向かって努力が必要と思う。それをしない限り成長曲線は水平線を描いて停滞するのではないだろうか。創造的な停滞や沈黙というものもあるけれど、プラスの方向に向かって進んでいる限り、目には見えない関数曲線を描いて進歩している。そして、その成果は突然やってくる。

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2005 年 03 月 13 日 : ソフトウェアの未来

最近話題のSONYの飛躍のきっかけは、その当時、世界一小さかったトランジスタを核とした“ポケッタブルラジオ”「TR-63」で、これを契機にしてその後発展に次ぐ発展を遂げた。SONYのサイトによれば“ポケッタブル(Pocketable)”というのは和製英語で正式な英語ではなかったらしい。今では英語の辞書に”ポケッタブル(pocketable)”とは”ポケットに入れて持ち運べるほど小さい(Small enough to be carried in a garment pocket)”という意味の言葉として掲載されている。

SONY以前、ラジオはトランジスタではなく真空管で作るというのが常識だった。でも真空管のラジオはとてもポケットに収まる代物じゃなかったので、誰もが手軽に持ち運びできるようなラジオなんて想像すらできなかった。そこにSONYの革新があった。ポケッタブルラジオは、その当時の人々の潜在的なニーズを呼び覚まして飛ぶように売れたという。

現在、携帯電話を一種の“ポケッタブルコンピューター”として置き換えて考えてみると、さまざまな面白い発想が浮かんでくる。アップルのパソコンでは、『ワイヤレスキーボード&マウス』として『Bluetooth』により無線でキーボードとマウスが本体のパソコンと接続可能だ。将来は、ディスプレイも含めてすべてのパソコンの周辺機器が無線で接続されたとしても不思議ではない。

光ファイバーによるインフラ整備やデータ圧縮やワイヤレスコミュニケーションなどの科学技術の進歩によって、インターネットコミュニケーションもさらにワイヤレスにブロードバンド化が進む。セキュリティ技術の研究開発の進歩も目覚しいので、私たちが普段利用している大量のデータをパソコンのハードディスクに保存する必然も無くなる。安全な銀行のように情報を預けれる施設があれば十分で安心さえできるようになるだろう。

パソコンにしてもこれ以上のスピードをインテルCPUに求める人も少ないと思うのだが、数年後には、確実に携帯電話に現在私たちが利用しているパソコンと同機能以上のCPUが搭載されるだろう。そうなれば想像もできないほどの革新が社会に起こるのではないだろうか。

以上のようなことから、携帯電話は本来の電話だけの機能ではなく、より汎用的な持ち運びできるコンピューターへと進化の道を歩んでいるように思える。

来年から、携帯電話に『ナンバーポータビリティー』の制度が導入されることになる。この制度により利用者は携帯電話の番号を変えずに携帯電話のキャリアや機種を自由に変更できる。携帯電話を一種のコンピューターとするのならば、そもそもコンピューターというものはハードウェアだけでは何も役に立たず、ソフトウェアがあるからこそ、その機能が果たされるわけだ。その意味で携帯電話が利用者に選ばれる理由として、ソフトウェアの位置づけが急激に重要なものになると予想される。

一方、パソコンのようなコンピューターが携帯電話サイズの大きさになるとするならば、テレビやビデオ、冷蔵庫、自動車などさまざまな機器にも超小型の高機能CPUが搭載され、しかもそれらの機器はネットに接続され協調して動作するだろう。そんなコンピューティング環境を誰もが手軽に自由自在に扱えるようにするために、今以上に大きなソフトウェア需要のムーブメントがきっと湧き起こるだろう。

これまでのように人手に頼ってソフトウェアを開発する方式ではそんな時代の要請に応えることは難しい。昨日お話した『メタプログラミング』のような手法により、使いやすく安全なソフトウェアを大量に自動生成するシステムが、今後より一層、求められることになるだろう。

  
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